神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

尚学堂で岡本帰一表紙絵『とりで』マクベス号(とりで社、大正2年)

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寺町通二条下ルに尚学堂という古書店がある。「『漫画世界』創刊号(漫画世界社、昭和24年10月)」「日蓮上人研究会旧蔵の『妙宗』7編7号(師子王文庫、明治37年9月)」で紹介したことがある店で、向かって右側の雑然と山積みされた雑誌群には時にお宝が埋もれている。何年か前に拾ったのが、『とりで』7号(とりで社、大正2年7月)、マクベス号である。写真では状態が良さそうに見えるが、本体には水濡れ跡のような汚れがあって、500円。かわじもとたかさんに教えてもらったが、『朝日新聞平成31年2月21日夕刊「古都ものがたり京都」に尚学堂が登場している。池波正太郎がここで資料の古地図を買ったり、古書を物色する2代目中村又五郎を目撃し、ある作品の主人公のモデルにしたという。
目次の一部をあげると、

クレエグ氏「マクベス」雑論 伊豆四郎
マクベス」に就きて 平田禿木
マクベスの戸の音(ドウ・クヰンセイ) 仲木貞一
独逸に於ける「マクベス」の新演出法(小山内薫氏の談を聞いて) 村田実
マクベスに就いて 伊庭孝
とりで社と近代劇協会との関係 伊豆四郎
演劇の没理想主義 村田実
クレエグ氏デザイン解 伊豆四郎
表紙及び裏絵 岡本帰一

『とりで』がどんな雑誌かというと、『日本近代文学大事典』5巻によると、

「とりで」 演劇美術雑誌。大正元・九~二・一〇。全八冊。はじめ季刊(四冊)、のち月刊。ゴードン=グレーグに心酔していた弱冠一八歳の村田実が中心になって東京高師付属中学の級友とともに発行したディレッタント雑誌。とりで社同人は村田実、岸田辰弥(劉生の弟)、宇野四郎、伊藤道郎(千田是也の長兄)ら。(略)

意外と珍しい雑誌なのか、国会図書館にもマイクロフィッシュ版(雄松堂出版、平成15年7月)があるだけで、「日本の古本屋」でもヒットしない。

京都の文人宿万屋主人金子竹次郎が残した日記

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最近こっそりと追いかけているのが、京都にあった文人宿万屋の主人金子竹次郎である。谷崎潤一郎が初めて京都に来た時に知り合った人物でもあって、小谷野敦谷崎潤一郎伝:堂々たる人生』(中央公論新社、平成18年6月)にも藝妓磯田多佳女の愛人岡本橘仙の甥として名前が出てくる。経歴は、『昭和人名辞典Ⅱ』3巻(西日本篇)から要約すると、

金子竹次郎 有限会社万屋社長
京都市中京区三条小橋西入ル
明治2[ママ]7年8月1日生 京都市出身
同志社大経済科卒、在学中に徳富蘇峰に師事
正徳享保の頃初代万屋甚兵衛が三条中島に旅籠屋を始めて以来の8代目
弓道を五条の芝田に、絵画を石川欣一郎に師事
目下建築、庭園に趣味を有し、研究中。チャチール会会員

これに付け加えれば、『同志社校友会名簿昭和三十六年度』(同志社校友会、昭和36年12月)によると明治41年卒である。吉岡書店で300円で買った『京都』30号(白川書院、昭和28年4月)の臼井喜之介「宿の名をたづねて」でも紹介されていた。

[萬家]
(略)
萬家はこの辺りでも古く、慶長や元禄時代の出版物にも名前が出て居り、岡田播陽氏が、「近江商人」の芝居を買いたシナリオの中にも熊沢蕃山がここへ泊る場がある。
同志社のこと以来、徳富蘇峰氏がここの定宿であり、先日も九十の齢で入洛宿泊されたことは京童に親しい。夏目漱石もここへ来たらしく、「草枕」の中に記事がみえる。
 (京三条小橋西・電本四三六)

漱石の「草枕」に出てくるのは万屋という酒屋なので勘違いだろう。ただし、漱石の日明治42年10月15日の条に「三条小橋の万屋へ行く。小さな汚い部屋へ入れる。湯に入る」云々とあるので、泊まったことは間違いない。
『京都』には、臼井による金子からの聞き書き「京の宿」も載っていた。

吉井勇氏や谷崎潤一郎氏、それに長田幹彦氏との交遊は、若い時、私も文学にあこがれてゐた三十歳前後の時代のことで、その頃はよく一緒に飲み歩いた。しかし、先生たちの酒は、今から思ふと、一つの試練であり、遊蕩もまた文学をつちかふ大切な道場であつたやうに思ふ。

そして、ある日、長田と夜の2時か3時まで痛飲して、一旦別れてから、そっと長田の下宿を襲ったエピソードを記している。抜き足で部屋の近くに行くと、深夜の部屋に灯がついていて、さらさらと原稿用紙にペンを走らす音がした。普通なら酔い疲れて眠ってしまう所を、感興が湧けば再び心を新たにして筆をとる姿に胸を打たれ、そのまま足音をしのばせて帰ったという。
長田や谷崎らとの交遊については、『文学散歩』4号(雪華社、昭和36年4月)の座談会「祇園の文学」でより詳しく述べている。谷崎の印象については、江戸っ子が来たと思ったとか、金子の部屋にあった伝又兵衛の寛永屏風を一生懸命見てるので、こういうことが分かる人かと思ったという。この座談会で驚いたのは、谷崎らが京都で遊蕩していた時期の日記が残っていると発言していることである。昭和36年当時残っていた日記、金子は39年6月に81歳で亡くなるが、今もどこかに残っているだろうか。そして、そこには漱石や谷崎が登場するのであろうか。

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

博報堂の瀬木博尚と謎の女性写真師宮本篤子

神戸に古書つのぶえというキリスト教関係書専門の古書店がある。キリスト教にはあまり興味がないから行かないでおこうと長らく思っていた。ところがどっこい、何年か前の大阪古書会館全大阪古書ブックフェアで300円均一コーナーをやってくれて、掘り出し物が多数あった。そのため、ちょくちょく行くようになった。昨年300円で見つけた宮本篤子『簡易写真術通信講義第二巻第三巻合本』(写真術研究会、明治29年12月)はその成果の1冊である。文章の途中の25頁から始まり、64頁まである。53頁以降は前田正名の東京写真館(日本橋区人形町通田所町)の広告である。落丁ありのようなので迷ったが、奥付を見て驚いて確保。
発行兼編輯者が瀬木博尚で、住所が東京市日本橋区本銀町2丁目9番とあり、博報堂の創業地と一致する。発行所の写真術研究会*1の所在地は銀座3丁目27番地である。明治28年博報堂を創業した瀬木が写真術研究会も主宰していたとは、研究者は御存知だろうか。
もう一つ注目すべき点は、執筆者が女性であることだ。宮本篤子は国会図書館サーチやCiNiiの戦前分ではヒットしない。表紙に「宮本篤子先生講述」とあるが、当時無名の女性ではなかっただろうか。宮本先生は撮影準備から撮影、現像まで図解付きで詳細に語っており、写真師だったと思われるが正体が分からない。
女性写真師と言えば、近事画報社にいた謎の女性写真師の正体を突き止めた黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川学芸出版、平成19年12月)がある。男の職業だった写真師だが、島隆(しま・りう)や塙芳野(本名・大浜はま)といった女性がいたという。しかし、残念ながら宮本は出てこない。「以前から写真の歴史には関心を持っている」という黒岩さんが生きておられたら、何かアドバイスをくれただろうか。
追記:「子」は子爵ということもあり得るのかなあ。ただし、『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、平成8年11月)に宮本という華族は立項されていない。そもそも「子」が付いていても、男性かもしれない。

*1:奈良県立図書情報館が写真術研究会編『実地応用素人写真術』(彰文館、明治42年10月)を所蔵している。

「小村侯記念図書館」印の押された森宣次郎『日支条約改訂問題の研究と批判』(大阪屋号書店)


 蔵書印の面白さを知ったのは、岡村敬二『「満洲国」資料集積機関概観』(不二出版、平成16年6月)だったか。その後、「蔵書印/出版広告」さん(@NIJL_collectors)と知り合ったり、岡村先生の『戦前期外地活動図書館職員人名辞書』(武久出版、平成29年7月)に書物蔵さんと共に名前が出たりした。
 そんな中で、津田書店が出品した旧満鉄図書館旧蔵本で安いものはできるだけ買ってきた。平成28年知恩寺の古本まつりで400円で拾ったのもその1冊である。森宣次郎『日支条約改訂問題の研究と批判』(大阪屋号書店昭和4年11月)で、扉に「小村侯記念図書館」印と「旅大市図書館蔵書印」が押されていた。その他、「16120/昭和16.4.1/小村侯記念図書館」印や「南満洲鉄道株式会社図書印」が押されていたり、貸出カードの入ったポケットが貼られていた。誰も借りる人がいなかったのか、帯出者の記載はない。
 小村侯記念図書館については、「満鉄中央試験所(杉田望著)から」で話題にしたことがある。10年で同図書館の旧蔵書を入手するとは、感慨深い。

『乱歩傑作選集』(平凡社)の内容見本

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新年度や新元号「令和」とはまったく関係のない『乱歩傑作選集』全12巻(平凡社)の内容見本の話。一昨年大阪古書会館たにまち月いち古書即売会で購入。唯書房出品1500円。四つ折りの紙に1500円出すのはややためらいがあったが、黄金仮面のインパクトに負けた。この選集は昭和10年に発行され、第1回配本第1巻が『黄金仮面』であった。推薦文として、川崎克「渠の魔力」、大下宇陀児「珍らしい程の面白さ」、丸山鶴吉「乱歩傑作選集を推奨すーー刑事犯罪学の立場からーー」が載っている。丸山の肩書きは、前警視総監である。丸山が面白いことを言っているので紹介しておこう。

(略)
江戸川君は現代日本が有つ最大の探偵小説作家である。その構想の緻密なる、その文章の味はひ深き、その本格的な探偵文学の大きな力は、あらゆる読者の怪奇的、猟奇的興味を満足させると同時に処世上の智慧と炯眼を眼ざまし行く。近代的犯罪の事実的頻発は我等賛成出来ないが、現代生活の意慾の流れはそこに存在する以上、それの満足を文学に求むるは当代の傾向と言はねばならず、刑事犯罪学の立場から言つても本選集の普及は寧ろ現代的猟奇的意慾を学術的に転化するよき安全弁ともなるであらう。(略)

丸山前警視総監が今も生きていたら、ロリコン漫画は抑止効果のある安全弁だと言ってくれるだろうか。

川柳家岸本水府の青年時代

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今年の水の都の古本展は昨年のようなモズブックス3冊500円コーナーはなかった。しかし、モズの雑誌や絵葉書に色々よいものがあった。『愛書』第1輯(台湾愛書会昭和8年6月)が1500円(!)で出てたが、持っているのでゆずぽんさんに教えてあげた。絵葉書コーナーは相変わらず日本絵葉書会の方に占拠されていたが、何枚か買えた。
昨年買った岸本水府が数え17歳の時に旅行先から父岸本龍太宛に送った葉書については、「明治41年数え17歳の岸本水府が旅先から父親に送った絵葉書」で紹介したが、同じく旅行先から送った葉書があったので購入、300円。8月15日付けで消印も年は不明で8月16日となっている。裏面には金剛山葛木神社のスタンプが押されている。文面は、15日には帰宅する予定が雨のため吉野行きを見送り、自分だけ先に帰ろうとしたが、皆に後二、三日だから一緒に帰ろうと言われたり、家のお婆さんに引き留められたというような内容で、「北宇智にて」とある。表面の仕切り線が3分の1なので明治40年から大正7年と推定できる。あとは、『番傘』474号(番傘川柳社、昭和33年4月)の「水府自伝8」を見ると、明治41年の事として、

その年の夏やすみに、小学校時代の親友森に誘われ、その父の別荘へ約二十日間の予定で遊びに行くことになつた。(略)行先は金剛山麓、奈良県宇智郡北宇智村近内にある小山の一軒家だつた。(略)

これで今回入手した葉書も前回同様明治41年に旅先から父親に送ったものと確認できた。葉書では、友人やお婆さんに引き留められたと書いているが、自伝によると、毎晩のように村の同じ年頃の娘達とかるた会をして、最後の日のかるた会では「異性というだけに悲しさに別なものを感じた」というので、本当は多感な数え17歳の水府自身が家に帰るよりも女の子達と遊んでいたかったのだろう。

芹沢光治良と世界紅卍字会後援会

日記、特に文学者の日記はアンテナを張ってできるだけ読むようにしているが、『芹沢光治良戦中戦後日記』(勉誠出版平成27年3月)が出ているのに今頃気付いた。まだ読みかけだが、世界紅卍字会後援会と思われる団体が出てきて驚いた。

(昭和十六年)
二月二十一日
(略)
○紅卍字会に出る。心電(ママ)現象について非難した。言わないでもいいくらい非難した。心電(ママ)というのは見るのでなく感ずるのだと説いてみた。特に神と関連して心霊を現象化しようとする愚を説いてみた。議論になった。呉清源君が僕に賛成した。松井[七夫]中将もそうだ。
(略)

[ ]は校閲者による注、( )は引用者による注。「紅卍字会」は世界紅卍字会後援会のことだろう。同会の主事を務める小田秀人は交霊会好きだったから、芹沢らと対立したか。
小田と同会については、「戦時下の心霊実験と小田秀人」、「世界紅卍字会後援会でポルターガイスト現象」参照。呉と同会については、「呉清源と世界紅卍字会後援会」、「興亜院時代の志智嘉九郎と呉清源・小田秀人の世界紅卍字会訪問」参照。芹沢と小田が親しかったことは判明していたが、世界紅卍字会後援会に参加していたことは、本書で初めて確認できた。国際政経学会については研究者がいるらしいが、世界紅卍字会後援会についてもアカデミックに研究してほしいものである。もしかしたら、沼津市芹沢光治良記念館に史料があるかもしれない。

芹沢光治良戦中戦後日記

芹沢光治良戦中戦後日記