神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

湯浅吉郎が夢見る演劇図書館ーー村島彩加『舞台の面影』(森話社)への補足ーー


 知恩寺秋の古本まつりも11月5日で終了。私の古本生活も一段落である。今回の古本まつりでは、特に竹岡書店の均一台で色々拾えました。写真を挙げた『演劇博物館の栞』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和15年12月)や『歌舞伎劇場図大展覧会目録:演劇博物館開館一週年記念』(演劇博物館後援会、昭和4年10月)がその例である。演劇博物館は、昭和3年10月の開館。初期の博物館の史料が古書市場に出たのだろうか。非常に状態がよく、旧蔵者が気になるところである。上京して博物館で「没後130年河竹黙阿弥ーー江戸から東京へーー」を観たばかりで、一種のシンクロニシティでもあった。
 さて、最近読んだ村島彩加『舞台の面影:演劇写真と役者・写真師』(森話社、令和4年5月)の「第一〇章 回顧とアーカイヴーー「劇に関する展覧会」と演劇図書館の試み」に、演劇博物館以前の大正15年に設立されたとの記録もあるという演劇図書館が出てくる。大正8年東京俳優組合の頭取である五代目中村歌右衛門が主唱し、世話役として山岸荷葉が選ばれ、元京都府立図書館長湯浅吉郎(号半月)が顧問となった。しかし、大正10年12月の『演芸画報』掲載の記事以降、演劇図書館に関する記事は発見できておらず、開館したかは不明とし、実現しなかったと思われると書いている。
 この演劇図書館の顛末については、実は湯浅関係の文献に記載がある。『書物展望』13巻11号(書物展望社昭和18年11月)の山宮允「半月年譜」大正12年9月の条に「俳優組合事務所も大震火災のため烏有に帰したるを以て、俳優図書館設立の計画を放棄し、募集せる設立資金を罹災俳優に頒与し、之を限り俳優組合と絶縁す」とある。これは、半田喜作編著『湯浅半月』(「湯浅半月」刊行会、平成元年11月)でも踏襲されている。これにより、実現しなかったと言える。
 ただ、ある程度は実現したとも言える史料がある。山形美編『大正大震火災誌』(改造社大正13年6月)の河竹繁俊「歌舞伎劇に及ぼせる影響」に演劇図書館の仮建築の焼失として、次のような記述がある。

(略)京橋区木挽町三原橋際に、梨園倶楽部なるものを設けて、階下は既に図書館に充て、諸家より寄贈の図書雑誌を蔵してゐたのであつた。がその建物は、震災によつて河の方へ傾斜し、数時間を出でずして焼失した。折角の好適な企画も一頓挫したことになるであらう。演劇図書館の焼失せる蔵書については、後段の「文献」の部に譲る。

 また、同書の内田魯庵「典籍の廃墟 失われたる文献の追懐」には「マダ公開されない中に全滅」とあるので、「文献」は集まりつつあったが、公開されていなかったと分かる。したがって、実質的には実現していなかったと言ってよいのだろう。
 残された疑問は、『近代文学研究叢書』55巻(昭和女子大学近代文化研究所、昭和58年12月)で山岸荷葉の章を執筆した赤松昭氏が「大正15・5創館」とした根拠である。これが、私にも分からない。ただ、
・『図書館雑誌』(日本図書館協会)大正15年及び昭和2年分に関係記事が無いこと
坪内逍遙の日記に記載がないこと
・国会デジコレで検索する限りでは、関係記事が見当たらないこと*1
から大正15年5月の創館は疑問である。可能性としては、同月に報道された*2坪内の日本最初の演劇図書館建設に向けた期成同盟会設立に関する記事と混同したのかもしれない。ただ、研究者がそのような誤りを犯すとも思えないので、すっきりはしない。引き続き調査してみたい。
 
 

*1:もちろん、国会図書館所蔵の文献に限られる上に、特に戦前の雑誌・新聞については所蔵率が限られているので、過信してはいけない。

*2:大正15年5月6日付け『東京朝日新聞』夕刊や『文藝時報』12号(文藝時報社、大正15年5月)など。前者について、坪内は日記同月5日の条で言及している。