神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

野波静雄と下中弥三郎

2006年2月21日に言及した旅順図書館と下中弥三郎だが、旅順図書館ではなく、大正7年関東都督府博物館(のちの旅順博物館)分館に設置された図書閲覧場ではないかという気もしてきた。まず『下中弥三郎事典』の「旅順図書館」の項を再掲すると、

 大正七年(一九一八年)八月日本女子美術時代の教え子野波八重子が旅順から下中を訪ねてきた。下中はこの年の三月埼玉師範を辞任し、もっぱら出版を初(ママ)めようと志していたところであったが、野波のいうところによると、夫の野波静雄が満鉄から図書館の経営をたのまれたが、自分は適任でないから誰かほかの人に頼みたいというのでお願にきた。ぜひ引きうけてくれというので、元来書物好きの下中は快くこれを受託渡満した。(中略)
 さて図書館は露清銀行の2階にあった。下中はそこで図書分類法を研究し、新な配列を実施すると同時に、オープンドアシステムを実行した。この開放的なやり方は満鉄に歓迎され、沿線に普及した。ついで下中は大谷光瑞の蔵書保管も一任されたので、その整理保存にあたった。

改めて岡村敬二『遺された蔵書』を見ると、

なお付記すれば、光瑞の発掘品は先に触れた朝鮮総督府博物館へ寄贈されたものとは別に、関東都督府満蒙物産館を前身とする関東庁博物館に寄託され分館に陳列されたものもあった。その分館には大正七年一〇月に関東都督府図書閲覧場が付設となり、一〇年には本館に移って図書部と改称されたが、昭和二年四月関東(庁)博物館附属図書館、昭和四年関東庁図書館として分離独立した。実はその関東庁図書館の蔵書設計で(略)大谷文庫三四八八冊所蔵と報告されている。大連図書館の大谷本との関連は未だ不明であるが(略)大谷文庫は発掘品関連の洋書を中心としてこの図書館にも所蔵されていたと考えられる。

とある。大正7年当時満鉄に「旅順図書館」があったとは確認できないので、正しくは旅順の関東都督府図書閲覧場のことではないかと思われる。同事典では露清銀行の2階にあったというから、分館がどこにあったかが問題だ。下中と図書館の関係についての先行研究はないと思われるが、誰ぞか岡村氏に今後の調査を期待しておこう。

さて、下中を旅順に呼んだ野波八重子の夫野波静雄だが、『満川亀太郎日記』にも出てきた。

大正13年5月23日 午後六時海上ビル中央亭内に於ける「神柢[祇]辞典」出版披露会に列す、清藤幸七郎、下中弥三郎両君に招かれてなり
下中君より野波静雄氏を紹介せらる、氏は有名なる阿片問題のオーソリチーにして、御互に姓名上の知人なりしなり

昭和8年1月26日 午后五時半東京会館にて大亜細亜協会創立発起会
近衛文麿松井石根、小笠原長生、根岸倍(ママ)、村川堅固、秦真次、永田鉄山本間雅晴下中弥三郎、野波静雄、大塚惟精

同書の巻末の「主要登場人物録」では、静雄は「(生没年不詳)満鉄調査部嘱託、大亜細亜協会会員、著書に『東南亜細亜諸国』、『国際阿片問題』など」とある。また、同事典では、「阿片問題を研究しイギリスの悪辣なやり方を暴露した人で、いつも外国を回り国際情報を満鉄に提供していた」とある。詳しい経歴は不明だが、またどこかで出会えそうな人物だ。

追記:村上美代治『満鉄図書館史』(村上美代治、2010年12月)によると、関東都督府図書閲覧場は満鉄旅順図書館の前身だった。

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三省堂古書館が、現在地での営業は2月27日までで、3月3日から隣の神保町本店4階に移転とのこと。よく下で呼び込みしてたから、苦戦してたのかしら。→http://www.books-sanseido.co.jp/blog/kosyo/2011/02/post-44.html