神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

図研で平瀬與一郎宛柏木義円・武田猪平連名の絵葉書を発見!ー片野真佐子『柏木義円』(ミネルヴァ書房)を使うー


 いつまでも記憶に残る展覧会というのがある。たとえば冒頭に図録の写真を挙げた展覧会である。「モダニズム再考二楽荘と大谷探検隊」は、芦屋市美術博物館、残る二つは龍谷大学龍谷ミュージアムの開催である。私の大好きなくろっぽい古本のような図録だ。この3冊になにかしら通底するものを感じる人がいれば鋭い。どれも担当学芸員は、和田秀寿氏である。現在勤める龍谷ミュージアムで定年を迎えるまでにもう1回展覧会を担当するそうなので、今から楽しみである。
 昨年大好評だった「博覧ー近代京都の集め見せる力ー」は、初期京都博覧会・西本願寺蒐覧会・仏教児童博物館・平瀬貝類博物館に焦点を当てた展覧会であった。このうち京都市岡崎にあった平瀬貝類博物館の館長であった平瀬與一郎については、私も「京都の上野、岡崎にもあった博物館ーー平瀬與一郎の平瀬貝類博物館ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したところである。

 先日尼崎市立歴史博物館で「尼崎紡績展」を観るついでに、駅前の古書店図研をのぞいてきた。紙もの、特に都道府県別に分けられた絵葉書が圧巻である。もっとも私はもっぱら趣味人や実逓便の箱をチエックした。一番驚いたのは、平瀬宛の絵葉書を見つけたことだった。更に、発信者の一人が「出版史料としての『柏木義円日記』 - 神保町系オタオタ日記」などで言及した群馬県安中教会の牧師柏木義円だった。もう一人の発信者武田猪平は未知の人物である。早速、片野真佐子柏木義円:徹底して弱さの上に立つ』(ミネルヴァ書房、令和5年1月)で調べると、大和田猪平として出ていた。明治3年新潟生まれで、同志社で神学を修めて、25年安中教会赴任、27年に武田淑子と結婚し武田姓を名乗っていた。柏木に妻となる平瀬かや子を紹介したのは武田で、與一郎はかや子のいとこであった。3人は、親しい関係だったことになる。
 絵葉書は、消印が不鮮明で発信年月日の記載もない。ただ、表面の仕切り線が中央にあるので、大正7年4月以降の絵葉書ということになる。また、『日本キリスト教歴史人名事典』(教文館、令和2年8月)によれば、武田は大正14年3月7日没*1なので大正7年4月~14年3月発信ということになる。
 絵葉書の文面は、柏木の分は、昨日武田が来訪し久し振りに快談したと書かれている。武田の分は、軽井沢に来たついでに柏木を訪問したこと、茅はいないが睦子、八千代、大四郎がかいがいしく働き柏木を大事にしてくれていることなどが書かれている。茅は柏木の妻かや子のことで、大正7年10月に亡くなっている。睦子は長女(明治37年生)、八千代は次女(明治41年生)、大四郎は四男(明治33年生)である。文意から言うと、大正7年10月の妻かや子没後の発信だろうか。
 柏木の日記については、飯沼二郎・片野真佐子編『柏木義円日記』(行路社、平成10年3月)や片野真佐子編・解説『柏木義円日記補遺:付・柏木義円著述目録』(行路社、平成13年3月)で翻刻されている。ただし、大正7年~14年に限っても、毎日記載されているわけでもなく、また人名索引のない日記から老眼のわしが武田や平瀬の名前を見つけるのは大変である。翻刻された分をざっと読んではみたが、絵葉書に記載された武田の来訪時期を特定できなかった。片野先生なら、武田の来訪時期を解明できるだろうか。

 

*1:平瀬は大正14年5月没、柏木は昭和13年1月没