神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

下田歌子校長追悼記念号の『姫小松』11号(順心高等女学校、昭和12年)

 
 写真を挙げた『姫小松』11号(順心高等女学校、昭和12年6月)は、「下田先生追悼記念号」。「下田先生」は、下田歌子校長である。下田は、大正7年4月順心高等女学校の前身である順心女学校の校長に就任して以降その職にあったが、昭和11年10月8日に亡くなった。本誌は、古書鎌田の目録から入手。チラシの方は、平成27年実践女子学園香雪記念資料館で開催された「第15回学祖・下田歌子展 下田歌子の旅」のもの。
 下田と言えば、先ず実践女子学園が浮かぶ。そこで、『下田歌子関係資料総目録』(実践女子学園、昭和55年3月)を見てみた。自校の桜同窓会編『なよ竹』25号(昭和12下田会長追悼号)と実践女学校学友会編『なよ竹 中等学部の巻』27号(昭和12下田校長追悼号)は所蔵していたものの、他校の『姫小松』は所蔵していない。国会図書館サーチでもヒットしない。そのため、本誌は貴重なものかもしれない。もっとも、順心高等女学校の後身である広尾学園中学校・高等学校は所蔵しているだろう。

 目次を挙げておく。「追悼の辞及歌」は、第1回から第9回までの卒業生と1年生から5年生までの在校生による追悼文と追悼和歌である。そのうち、5年生原節子「校長先生を悼み奉りて」から引用しよう。なお、原節子といっても、女優の原節子(本名會田昌江)とは無関係である。

(略)
 私はサイレンと共に教室に帰つていつた。何心なく歩いてゐると 正面からわつと両腕をぐつと押へつけられた様に思つて、 目を上げた瞬間北組の小太刀さんが並々ならぬ面持で私の顔を凝視してゐた。私は其の時がくりと胸をついた心の仄めきと同時に、又相手をじつと見つめた。小太刀さんは静かに「今から第一講堂へは[ママ]入る意味がわかつた?」私はそつとうなづいて、何か訳わからずにこみ上げて来る心を落着けて第一講堂へ・・・・・・暫くは沈黙の中に、森本先生*1からの知らせは・・・ 恰も自体の全神経を逆上させた様に、全身震振ひのするのを覚えた。
 私は帰る途も連れ添ふ友達とも交はす言葉を知らず、こみ上げて来る悲しみをぐつと呑み込んでやつと我が家の門を潜つた時「只今」と云ふが早いか顔を覆つた。
(略)

 下田校長を失った悲しみや戸惑いがよく感じられる文章である。

*1:副校長の森本常吉