「柳田国男年譜」(小田富英作成)*1昭和9年8月9日の条に「新村出宛てに、葉書を書く」とある。この葉書の文面は、菊地暁「拝啓 新村出様:柳田国男書簡からみる民俗学史断章」『国立歴史民俗博物館研究報告』第165集に掲載されている。葡領東印度の親日有力者Van de Pollが京都へ行くので、会っていただきたいというものである。追伸では、プールは「神戸の例のチャローズ?のことも知りをり候 多分同領事殿ニ二十二日頃迄ハ居り」と書いている。菊地先生はこの神戸の領事「チャローズ?」について、「未詳」とされている。私は、これを読んだとき、なんか見たことある人だと思って調べてみたが、結局分からないまま数年が経った。
ところが、『大阪史談会報』創刊号(大阪史談会事務所、昭和2年12月)を見てたら、昭和2年7月第38回大阪史談会における神戸からきた「和蘭領事ウイルヘルムヘンドリクス、デ、ロース」の講演が載っていた。「チャローズ」と「デ・ロース」では微妙に異なるものの、神戸の領事という共通点はある。また、柳田は絵葉書でプールについて、「以前の日葡通交調査会の御縁深き」と書いていて、「日葡通交調査会」は正しくは「日蘭通交調査会」であり、オランダとも繋がってくる。
デ・ロースであれば、新村とは元々縁があった。新村は、『藝文』*2昭和2年10月号(内外出版)のウェー・ハー・デ・ロース、平松金次共訳「阿蘭陀詩抄」の「小引」で、「蘭国訳官ウェー・ハー・デ・ロース(W.H.de.Roos)」による蘭詩の佳作の和訳を紹介している。これによれば、デ・ロースが大正13年のシーボルト来朝百年紀年祭の際に、公使に従い長崎に来て流暢な邦語で式辞を述べたのを聴いてからの知り合いである。その後、講師である大阪外国語学校や新村が館長を務める京大図書館、デ・ロースが奉職する神戸で日蘭の史的関係と両国の風土民性文藝の特色について親しく語ったともある。こういう繋がりがあるから、柳田は「神戸の例のチャローズ」と書いたのだろう。
ところで、デ・ロースに見覚えがあった理由である。山口昌男の名著『内田魯庵山脈』に出てくるのである。
我楽他宗には他にも外国人として、何度も触れたスタール、インドのシング、神戸のオランダ副領事W・X[ママ]・デ・ロース、ポーランドのルビエンスキ伯爵らのほかに、建築家レーモンド夫妻が加わっている。
デ・ロースは、我楽他宗の会員だったのである。ここに挙がっているシング、ルビエンスキ、レーモンド夫妻には神智学という繋がりがあって、安藤礼二先生の監修で多摩美術大学アートテーク・ギャラリーにおいて展覧会「我楽他宗 —— 民藝とモダンデザイナーの集まり | 多摩美術大学 芸術人類学研究所 Institute for Art Anthropology」が開催されたところである。さすがにデ・ロースと神智学は関係なさそうだが、引き続き調査してみよう。