神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

須田国太郎や明石染人と交流のあった田中緑紅と豊ヶ丘農工学院の漢見信子


 太田喜二郎や須田国太郎と年賀状のやり取りをした津崎信子(のち漢見信子)については、「太田喜二郎人生最後の年賀状ーー津崎信子宛年賀状からーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その後@pieinthesky氏からおまけに貰った(又は追加で買った?)年賀状を紹介しておこう。明石染人から漢見宛昭和30年の年賀状である。以前紹介した年賀状では漢見の住所は滋賀県彦根市や愛知県豊ヶ丘農工学院だったが、これは大阪の河内少年院官舎となっている。
 染人は歌人の明石海人とは無関係で、詳しい経歴は「Kokeshi Wiki」の「明石染人 | Kokeshi Wiki」を見られたい。染織工芸の研究者で、こけしの蒐集家でもあった。また、大正7年1月田中緑紅らと共に『郷土趣味』を創刊したメンバーである。昨年歴彩館で展覧会があった*1明石博高(あかし・ひろあきら)の三男でもある。漢見と染人のつながりは、不詳である。ただ、染人の本名である明石国助名義の昭和31年及び32年の年賀状(宛先は豊ヶ丘農工学院)もあるので、一定期間交流が続いたことになる。
 ところで、令和元年6月三人社から復刻された『緑紅叢書』の別冊に付録として付いた『京を語る会会報』を読んでいたら、驚いた。36号、昭和37年12月で緑紅が須田との関係について言及していた。

▽竹馬の友であつた芸術院会員須田国太郎君は惜まれて昨冬十二月十六日、七十才で亡くなりました。(略)幼稚園、日影小学、第五高小、府立一中まで一緒でした。生徒中でも平凡な子で、絵画に趣味をもつていることも知りませんでした。(略)

 調べてみると、須田は「京を語る会」の会員であっただけではなく、緑紅や染人が創設した郷土趣味社の正会員でもあった*2。また、染人も「京を語る会」の会員であった。漢見は、緑紅と深く繋がる須田や染人の両方と交流があったことになる。ただし、漢見と緑紅との接点は確認できないので、今のところ偶然と考えた方が良さそうではある。いずれにしても、瓢箪から駒で画家としての須田に知られざる側面が判明して、勉強になった。「図書研究会々員だった?須田国太郎 - 神保町系オタオタ日記」で言及したように、須田は戦前「図書研究会」の会員だった可能性もあり、漢見共々今後も注目したい。

*1:令和4年4月16日~6月5日に開催された「明石博高ーー京都近代化の先駆者ーー」

*2:『郷土趣味』4巻12号の(郷土趣味社、大正13年1月)の「郷土趣味社会員名簿」(大正13年1月10日調)