神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

昭和16年11月8日付け田中緑紅宛佐藤忠太郎の葉書ーー宮城県白石市の紙衣研究家佐藤忠太郎ーー

f:id:jyunku:20210224174216j:plain
 田中緑紅宛の年賀状は比較的入手しやすく、今でも寸葉さんのところに何枚も残っていると思う。今回は緑紅宛でも、年賀状でないものを紹介。昭和16年11月8日付けで宮城県白石町の佐藤忠太郎からである。先般の列席・種々の世話への礼で、20日夜「あの品々全部大□様の台覧を賜はり感激」し、「今後共東□の工芸の為め御援助賜はり度く」云々とあるようだ。同年10月何かの展覧会があって、緑紅が協力したのだろうか。
 佐藤は、おそらく週刊時事編集部編『この人・その事業』第8(時事通信社、昭和43年7月)の「白石市佐藤忠太郎氏 白石紙布つくり」で紹介された人物と思われる。これによると、明治34年白石市呉服商の家に生まれた。中学卒業後、家業の手伝いの傍ら郷土史を研究。古文書の中に天保飢饉の際に先祖が製紙業者の肝入りをしたとの記録があった。以後、県内はもとより、奈良や京都にまで足を伸ばして、和紙や紙子の研究に身を入れるようになったのが、24歳の頃だという。また、グーグルブックスで検索すると、『白石市史』がヒットし、昭和43年没と分かる。
 佐藤は、フランク・ホーレーとも交流があった。横山學『書物に魅せられた英国人:フランク・ホーレーと日本文化』(吉川弘文館、平成15年10月)によれば、

 自分の著書には最高品質の手漉和紙を使用したいと願っていたホーレーは、東京の装丁専門家池上幸二郎を通じて、宮城県白石の佐藤忠太郎と遠藤忠雄に紹介された。(略)佐藤は、片倉信光・遠藤忠雄・菅野新一らと共に、「奥州白石郷土工芸研究所」を昭和十五年十月十四日に設立し、白石に伝わる紙布織の製法の復元を目指す一方、農林省の指示で全日本の楮調査を行なった。戦後には、「白石紙子」の復活と普及を目指して各地を調査しながら「国土緑化楮増産」の講演・講習を行なっている。(略)

 佐藤は、昭和31年ホーレーに寿岳文章『紙漉旅日記』同様に白石の紙布を使用してはどうかと提案しているので、寿岳とも関係しているかもしれない。
参考:「昭和2年復刊が予定されていた田中緑紅の『郷土趣味』(郷土趣味社) - 神保町系オタオタ日記