神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大谷派の真宗東京中学舎監・教授だった赤松大励の経歴


 赤松大励『修養小話:印度古代お伽草紙』(森江英二、明治39年12月)は、国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。初版の序文は南條文雄・吉田賢龍で、再版に際して佐々木月樵の序文が加わったようだ。それによると、赤松は、兵庫県飾磨郡西中島村の法林寺住職川崎了温の次男として明治7年5月に生まれた。その後、妻鹿村西楽寺の赤松祐秀の養嗣子となり、佐々木とは真宗大学の寄宿舎で同室となって知り合ったという。赤松は、卒業後に真宗東京中学の舎監長[ママ]、倫理の教授となるが、明治38年3月満洲奉天で戦死したともある。
 実は、この赤松が「明治28年稲葉昌丸や今川覚神の周辺にいた真宗大谷派某氏の日記 - 神保町系オタオタ日記」や「『教界時言』を発行した清沢満之ら白川党の身近にいたか『乙未日録』の筆者ーー大谷大学博物館で「清沢満之と真宗大学」展開催中ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した日記『乙未日録』の筆者であった。これは、今年四天王寺春の大古本まつりで、赤松自筆の『予乃歴史』を掘り出して判明した。同書から赤松の経歴を要約すると、

明治7年7月 川崎了温の息子として誕生
明治11年 父遷化
明治16年~17年 叔父に供われ京都に赴き得度式を受ける。赤松祐賢(祐秀の父)の次男として、同年7月僧侶となる。 
明治18年(又は17年)7月 網干を去り、妻鹿村の赤松祐秀に依托され教育を受ける。
明治23年 姫路本徳寺内私立崇徳校卒業*1
明治28年3月 姫路尋常中学校卒業
同年 6月京師に入り岩崎護と真宗大学寮入学を企て、9月第2部に入学
同年12月 一年志願兵となり入隊
明治29年11月 満期退営
明治30年9月~12月 予備召集に応じる。
明治31年1月 復学
同年3月 陸軍少尉
明治34年7月 真宗大学卒業。権律師に補せられ、学師補の称号を受ける。
同年11月 真宗東京中学舎監兼教授
明治35年3月 歩兵中尉
同年9月 1年、2年級の倫理科を受け持つ。

 佐々木による序文の内容とは、赤松の生年月や養父の名前が異なっていることが分かる。また、私は、日記の筆者は岩崎や興地観円らと共に清沢満之ら白川党の周辺にいたと推測したが、赤松は後年ではあるものの『精神界』2巻12号(精神界発行所、明治35年12月)に「親鸞聖人の理想的人格」を執筆していた。更に、日記に見える進化論に関する記事は自ら原書を翻訳した節があるとしたが、『予乃歴史』には18歳の時に川口弥吉に英語を学ぶとあるので、翻訳ができる可能性はあったことになる。300円均一のクズ和本の中にあった赤松の日記・自筆年譜、目録に挙げれば大谷大学の学史研究者には売れたかもしれない。

*1:『日露戦役忠勇列伝:兵庫県之部第二号』(忠勇顕彰会、大正4年8月)によれば、同校在学中に雑誌『学園』の編集員となり、「華陽日記」を掲載した。