神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

「趣味の旅行」が盛んになった昭和初期における東海道自動車旅行ーー近江商人藤井彦四郎の妻藤井屋壽子の饅頭本から見るーー

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 饅頭本(追悼本)にも当たり外れがあって、実業家のものは外れが多い。ましてや、実業家の家族の追悼本となると私が買うことはまずないだろう。今回紹介する『藤井屋壽子』(藤井健次郎昭和16年10月)は、迷ったが同志社の女性教員だったデントンが寄稿し、編輯者の熊川千代喜が京都人なので買ったと思う。300円。目次を挙げておく。
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 あらためて読んでみると、意外と役に立つ本であった。まず、夫の藤井彦四郎は近江商人で、滋賀県の旧邸は今は五個荘近江商人屋敷になっている。また、屋壽子は旅行好きだったということで、北海道、朝鮮、四国、南紀、伊勢、信濃上高地の汽車・船による旅行のほか、東海道の自動車旅行が記録されていた。
 自動車旅行は、京都店に出入りする自動車屋が「ウヰリス・ナイト」を購入し、封切りに東京との往復への試乗を勧めたのが切っ掛けであった。昭和4年5月19日、藤井夫妻と長男、次女が同乗して京都の鹿ヶ谷邸を出発。25日には帰宅しているので、6泊7日の旅であった。道路情報、道路地図などもまだまだ未整備な時代なので、東京との往復にはだいぶ苦労している。往路では桑名まで行ったところで橋が取り替え中で、自動車には長男だけが乗って岐阜へ迂回し、残りの人達は汽車で名古屋まで移動している。また、ようやく品川に着いたと思ったら、「代々木初台の邸に入らんとしたが、運転手は京都の男で、東京辺りの地理に暗く、乗つてる我々も毎時も乗物ばかりで、さてとなると皆目勝手が分らず、宛[ママ]然紙袋冠つた猫のやうなもので随分困つた」という。往路で懲りたのか、屋壽子と次女は復路のほとんどは汽車で移動している。
 この昭和初期は、大衆による旅行が進んだ時代であった。白幡洋三郎『旅行ノススメ:昭和が生んだ庶民の「新文化」』(中央公論社、平成8年6月)には、次のようにある。

 昭和二年といえば、昭和元年がわずか六日しかなかったから、実質的な昭和の始まりの年である。しかも、さきにふれたように、柳田国男が「旅」と「旅行」を区別して語りはじめた時期でもある。民衆の側から、苦労の多い、移動そのものといった「旅」ではない、楽しみのための「旅行」が求められ、大衆化しつつあった。
 同時に旅行業者の側からは、単なるあっせんや接待をこえて、営利的な観点から旅行者を見る目が確立しはじめた。旅客および業者の双方において「旅」が「旅行」になってゆくのは、昭和という時代の幕あけとぴったり一致する。

 大衆による旅行が普及した時代で、旅行雑誌も相次いで創刊された。富田昭次『旅の風俗史』(青弓社、平成20年7月)の「旅行雑誌の巻」によると、大正13年4月創刊の『旅』(日本旅行文化協会)に続き、昭和3年に『旅と伝説』(三元社)、昭和5年に『旅行とお国自慢』(帝国旅行新聞社)と『行楽:旅行趣味の雑誌』(静岡県旅行協会)が刊行されている。これに補足すると、モズブックスから入手した『旅の友:趣味の旅行雑誌』(中部旅行協会)という旅行雑誌も存在する。第3年第5号で昭和4年5月発行なので、まさしく実質的な昭和の始まりである昭和2年の創刊である。この「趣味の旅行雑誌」は面白い内容なので、別途紹介しよう。
 近年、赤井正二『旅行のモダニズム:大正昭和前期の社会文化変動』(ナカニシヤ出版、平成28年12月)や「明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した山本著など、戦前期の旅行に関する研究が進展しているようだ。しかし、『藤井屋壽子』にあったような個人の自動車旅行については、研究されているだろうか。私も各種の日記に記載がないか、注意しておこう。
 昭和も時代が進むと、趣味の旅行などとんでもないと非難される時代がやってくる。昭和16年開戦前に同志社の外国人教員が引き揚げる中、ただ一人デントンは日本に残った。『藤井屋壽子』は、同年10月発行。12月の開戦後の発行であれば、米国人デントンの原稿は掲載されなかったかもしれない。
 なお、赤井著290頁は神戸の登山団体に関する文献を挙げているが、中島俊郎「六甲山のウォーキングーー神戸徒歩会の活動を主軸にーーー」『甲南大学紀要文学編』166号、平成28年3月を追加しておこう。
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