神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治44年清国人留学生黄尊三も倣った加藤咄堂立案の『修養日記』

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 黄尊三著、さねとうけいしゅう・佐藤三郎訳『清国人日本留学日記:一九〇五ー一九一二年』(東方書店、昭和61年4月)に、『修養論』(東亜堂書房、明治42年4月)の著者である加藤咄堂が立案、修養会が編纂した『修養日記』が出てくる。

(明治四四年)
(略)一月一日(略)
修養日記に倣う (略)朝食後、外出し加藤咄堂編の修養日記を一冊買う。加藤は日本有数の修養家で、修養会を創設し、会員は千余人、みな積学篤行の士である。会の中に編集部を設け、人生の修養に関する本を編集しており、この日記は修養会編集部で発行したもの。日記の重要部分は、外的生活・内的生活・読書・社会雑事の各種に分かれており、僕もこれに倣って記してゆくことにする①。
〈外的生活〉夕食後、鄧皋生君と外に散歩にゆく。冷い風が骨まで浸みるようで、歩く人も少い。街は異常に静寂、ついでに少留の所に行くと、友人達が集っていた。九時までのんびり話し、一〇時に就寝。
注① こうした形式の記述は、一月の末頃までしか続いていない。

 本書の「まえがき」(佐藤)によると、黄は明治16年生まれで、明治38年日本に派遣される公費留学生に選ばれ来日したが、「文部省留学生取締規則事件」のため清国人留学生が一斉退学し、一時帰国。翌年再来日し、当時は明治大学法学部に在学中であった。
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 黄は、明治44年に加藤の『修養日記』を買っている。ただし、「倣う」とあるので、『修養日記』そのものは使わなかったようだ。『修養日記』は、加藤『読書法』(東亜堂書房、明治43年4月)の巻末広告によると、明治43年から刊行された。需要はあったようで、加藤『運命論』(東亜堂書房、大正3年8月)には大正3年版の広告が出ている。
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 『修養日記』の実物を見てみたいものだが、国会図書館サーチではヒットしない。『日本の古本屋』の出品記録にもない。国際基督教大学の「福田秀一日記コレクション」(WEKO - 国際基督教大学リポジトリ)にも所蔵なし。残らないものですね。特に加藤の「日記と修養」「日記の中より」が掲載されているという大正3年版が見てみたい。
 日記は自由に書けることに意味があると思う。『修養日記』が「外的生活」と「内的生活」を区分して書かせるのは、修養の実践という意味があるのかもしれない。しかし、黄の日記が長続きしなかったように、やはり日記は自分の好きなように書けないと不便だろう。