神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

上智大学のキュンブルク神父と九州帝国大学の竹内亮を繋ぐ植物学

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 もう1枚の竹内亮宛葉書も、数年前にシルヴァン書房から購入したものである。裏面は、写真のとおり地味に印刷された上智大学名の年賀状である。これを見て買う人はいないだろう。しかし、私は表面に博士宛で発信者が上智大学内とあるので買っておいた。宛名の竹内亮も発信者のキュンブルクも未知の人物だが、調べたら面白いかもと思ったのであった。
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 竹内については、昨日「台北の某先生から九州帝国大学の植物学者竹内亮宛の絵葉書ーー台湾総督府始政第四十回記念絵葉書ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。更に「皓星社データベース」で検索すると、『日本人物情報大系』15巻で復刻された『第四版満洲紳士録』(満蒙資料協会、昭和18年12月)に記載されていることが判明。同書から要約すると、

竹内亮(タケノウチ・マコト)
農学博士、林野総局嘱託、建国大学講師、協和会科学技術聯合部会自然科学部、同林業部会及林業研究部会各委員、風景協会*1新京地方委員、福岡山の会会長
[出生]明治27年8月名古屋市
[本籍地]福井県
[学歴]大正7年 北大農学部林学実科卒
大正11年昭和14年 九大農学部植物学教室にて研究
昭和9年1月 東大提出の論文で博士
[経歴]王子製紙。九大農学部助手、同部嘱託を経て昭和12年満洲国大陸科学院嘱託。16年2月建国大学講師

 『九州帝国大学一覧』で、竹内は昭和6年までは農学部生物学教室の助手だったことが確認できる。それ以降は同一覧に職員としての記載が無いので、「嘱託」という形で研究を続けたのだろう。戦後については、ネットで読める菅野智博「ある少年のみた満洲ーー竹内一郎の「満洲紀行」よりーー 解題」に詳しい。
 葉書は昭和11年12月31日付けで文面は英文である。要約すると、
・論文送付へのお礼
・学校のカレンダーを送ったこと
・自分はいつ福岡を再訪できるか分からないので、竹内の東京再訪を期待すること
が書かれているようだ。サインは、M.Kuenburgとある。論文を送られるほど竹内と親しかったこのキュンブルクが不詳なので、「上智大学の人が見てたら、教えて~」と書こうと思っていたら、『上智大学五十年史』(上智大学出版部、昭和38年11月)に出ていた。
 「マックス・フォン・キューエンブルク師」と表記され、由緒あるオーストリア伯爵家の長男であった。しかし、家督相続権を放棄してイエズス会に入会。インスブルク大学で倫理学を講じていたが、昭和5年来日。上智大学の哲学科で教えた。植物学にも造詣が深く、標本などを多数蒐集、分類していた。上智学院院長も7年務め、昭和32年に亡くなったという。さすが伯爵家の御曹司である。植物学にも造詣が深かったので、植物学者の竹内から論文を送られたのであろう。
 この他、グーグルブックスで検索すると、窪田明治切支丹屋敷物語』(雄山閣出版)に、上智大学教授キュンブルグ神父が芝の智福寺境内をキリシタン殉教遺跡地と確定したことが書かれているようだ。
 

*1:「風景協会」が気になる。