神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治25年絵草紙屋で雑誌『少年園』を買う綱島梁川

 明治期に絵草紙屋が新刊雑誌も販売した時期があったという。今回、日記中にその実例を発見したので紹介しておこう。

(明治二十五年四月)
 九日 (略)不覚柳町の雑誌屋まで行きぬ。雑誌屋にて古き国民之友二三冊買ひ求め、(略)途中八銭五厘を出して、新しき国民之友二冊を細工町の雑誌屋へ誂へ(略)
  十一銭雑誌代
(明治二十五年五月)
 三日 (略)昨夜故郷なる愛弟より葉書もて、先月分少年園未だ到着せず、如何なる訳にや、金はなほ六月迄ありしと思ひしに、何かの間違ひならむ、何卒早速御発送を乞ふ旨申し来りければ、即夜これ全く絵草紙屋の失念ならむ、この事は素て佐藤氏に托し居ることなれば、至急同氏に照会し、絵草紙屋より送るやう運ぶべしとの返事を認め、今朝七時投函しぬ。(略)
(同年)
 七月一日 (略)帰るさある絵草紙屋にて一葉の絵を買ひ求めたり。(略)
 (略)二銭三厘絵画一葉
(明治二十六年四月)
 二十四日 (略)予は絵草紙屋にゆき文則を求めしに、未だ発刊せずとの事なれば、少年園だけ買ひ求めて帰りぬ。(略)
 三銭五厘少年園
(同月)
 二十五日 (略)少年園を故郷なる弟へ発送せり。(略)

 これは、明治25年1月東京専門学校専修英語科に入学、同年6月卒業後、同年9月同校文科に入学していた綱島梁川(本名栄一郎)である。引用は、『梁川全集』8巻(春秋社、大正12年1月)による。日記によると、当初は絵草紙屋から故郷(現在の岡山県高梁市)の弟へ雑誌『少年園』を送ってもらっていたが、その後梁川が絵草紙屋から買って、弟へ送っていたようだ。同誌は、『日本近代文学大事典』5巻を見ると、児童雑誌として明治21年11月から28年4月まで、3日・18日の月2回発行されたとある。
 明治25年4月9日の条にある「雑誌屋」は雑誌専売店だろうか。雑誌も売る絵草紙屋と雑誌専売店が併存していた時代であった。「絵草紙屋→絵葉書屋、貸本屋→雑誌回読会 - 書物蔵」によると、絵草紙屋はその後廃れて本屋や絵葉書屋に転換することになる。