神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

二科会会友海老名文雄とパトロン芝川照吉ーー久米正雄「モン・アミ」に出てくるN洋画会のパトロンMは誰だ?ーー

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 「久米正雄「モン・アミ」の画家相澤八郎のモデル - 神保町系オタオタ日記」で行った久米正雄の小説「モン・アミ」『改造』昭和4年10月に出てくる相澤八郎のモデル=海老名文雄説及び海老名の年譜は、小谷野敦氏や林哲夫氏に好評であった。ただし、相澤らN洋画会(二科会と思われる)のパトロンだったMのモデルは、判明しなかった。「モン・アミ」でのMに関する記述は、次のとおりである。

(略)私は日本を出る前に、実は、相澤の後援者で、ーー相澤のと云ふよりは、寧ろNーー洋画会の後援者で、鎌倉扇ケ谷奥に住んでゐるM氏から、巴里に於ける彼の近状を、詳しく探つて貰ひたいと云ふ依頼を受けて居たからだつた。

 Mというイニシャルを持つ二科会パトロンは、今もって見つかっていない。ただ、二科会パトロンとして芝川照吉という人物がいた。残念ながら、イニシャルが違うし、大正12年に亡くなっているので、パトロンMの候補にはなりえない。しかし、それらを除くと候補の資格は十分ある。
・平成25年に京都国立近代美術館で開催された「芝川照吉コレクション展 青木繁岸田劉生らを支えたコレクター」に出品されていたが、芝川は海老名の《水鳥》を所蔵していた。
・『幻想のコレクション芝川照吉 劉生、達吉、柏亭らを支えたもう一つの美術史』(渋谷区立松濤美術館、平成17年)*1所収の「照吉日記」によると、芝高輪北町に住んでいた芝川は、亡くなる直前の大正12年4月鎌倉に借家を探していた。
・年譜によると、大正4年芝川は夏目漱石に磯田多佳を紹介している。杉田博明『祇園の女:文芸芸妓磯田多佳』(新潮社、平成3年1月)に芝川を漱石の弟子とあるのは俄には信じがたいが、漱石と親しかったことがうかがわれる。久米と面識があってもおかしくないわけである。
 結局、私の能力ではMの正体は不明である。二科会パトロンでMのイニシャルを持つ人を御存知の方がおられたら、御教示いただきたい。
 私が海老名の年譜を作ったのは、もう9年も前である。もはや、増補版を作るつもりはない。だが、その後幾つか判明した事があるので、参考までに記録しておこう。
・『柏亭自伝』(中央公論美術出版、昭和46年7月)に中央新聞編輯室の給仕として、海老名が出てくる。大正3年二科会を創設する石井柏亭は、明治37年から38年まで中央新聞社に勤めていた。
島村利正『奈良飛鳥園』(新潮社、昭和55年3月)に、小川晴暘と太平洋画会研究所の同輩で後に二科の常連になった「海老原[ママ]文雄」が出てくる。おそらく、海老名のことだろう。
国会図書館雑誌記事索引」の遡及入力が進んだようで、海老名の「『仲間』ルイ・ジューヴェ」『文藝春秋』昭和26年10月がヒットする。海老名は、敗戦後も生存していたわけである。
 ところで、前記京都国立近代美術館の展覧会の図録中、「出品作家紹介」に海老名の経歴が出ている。大正10年渡仏とか、11年第9回二科展への出品を最後に画壇から離れたとあるが、どちらも間違いである。厳しいことを言えば、学芸員は美術人名辞典を単に引き写すだけでなく、『昭和期美術展覧会出品目録戦前篇』や当時の『日本美術年鑑』等により確認しなくてはいけない。

*1:冒頭の写真右端の図録。表紙は、岸田劉生『芝川照吉氏之像』大正8年