神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

富士正晴らに同人雑誌『三人』の発行を認めた第三高等学校教授平田元吉

第三高等学校教授で志賀直哉の英語の家庭教師だった平田元吉は、富士正晴野間宏・桑原静雄(竹之内静雄)が発行した同人雑誌『三人』とも縁があった。富士の「同人雑誌『三人』成立」によると、

[昭和七年]五月一日、記念祭のとき、文三乙がやったゲーテ展会場で(略)平田元吉という生徒主事と話す。この人は志賀直哉の中学生時代の英語の家庭教師であった人だ。「このごろの志賀君の顔はますますゲーテに似て来た」などと彼はなつかしがった。(略)五月十七日、わたしははじめて桑原静雄を知り野間、桑原を竹内勝太郎のもとへつれて行って紹介した。
(略)九月十八日(略)下河原町の林久男(ゲーテ学者で当時三高文芸部長)をたずねて行った。(略)林久男は文芸部にちゃんと嶽水会雑誌というものがあるのに、何も別に同人雑誌を作る必要はない筈だと反対した。(略)結局生徒主事さえ認めるならということになった(略)一旦学校へひきかえして生徒主事の長の平田元吉の所をきき、下鴨宮河町の彼の家へ出かけて行った。(略)円顔で、小柄で、訛のある朴訥な話し方をするこの人には一種の俗気のなさがあった。(略)それはいいことだと彼は賛成し、出来上ったら一部ほしいと言っただけだった。(略)しまいには自分の祖父の詩を見せて説明さえし、わたしたちは大変気をよくして引き上げた。(略)

生徒主事の平田が反対すれば、『三人』の発行はできないところだったわけだ。この富士らのピンチを救った平田の略歴だが、数年前天神さんの古本まつりで厚生書店の雑誌1冊100円コーナーで拾った『会報』14号(三高同窓会、昭和17年10月)に載っていた。「故人を偲ぶ」という記事*1で、足立謙吉、市村恵吾、八木清之助、稲城峰晃、瀧浦文弥、河田嗣郎、内田新也らとともに略歴と写真が掲載されている。

明治7年4月5日 生
34年7月 東京帝国大学文科大学哲学科卒業
39年12月 第三高等学校独逸語科講師ヲ嘱託ス
40年4月 任第三高等学校教授
昭和2年3月 補第三高等学校生徒監
3年12月 兼任第三高等学校生徒主事
5年6月 免本官専任第三高等学校生徒主事
同月 兼任第三高等学校教授
10年12月 任第三高等学校教授
同月 兼任第三高等学校生徒主事
13年4月 依願免本官並兼官
同月 本校独逸語科講師嘱託ス
17年1月22日 逝去

平田はWikipediaにも立項されていないのでネット上に略歴を挙げておけば誰かの役に立つだろう。なお、この年譜では昭和7年当時平田が生徒主事とは確認できないが、『第三高等学校一覧』(第三高等学校昭和7年8月)で生徒主事だったことがわかる。
また、前掲会報には平田の長女八重子の夫である久志卓真の「平田元吉の素描」も掲載されている。それによれば、
明治12年7月父を失い、9月母を失い、7歳にして、姉、妹、平田の三人が残され、叔母岩子に扶養された。
島津藩[ママ]のお姫様附の儒官の家柄として代々学を業とし、父は造士官[ママ]の教官を務めた。
・中学さえ行けず、独学で札幌農学校に入ったが、それは姉婿堀宗人が先に開拓使次官、後の炭鉱汽船社長堀基の下に力を振いつつあったのを頼って渡道したことに由来する。
・その後意を決して上京、一高の試験を受けてパス。一高だけは何とか苦学でぶっ通したが、大学は幾度か止めようとして、それを鞭撻して苦学を続けさせたのが岩元禎であった。大学を卒業するのに5年を要した。
明治40年京大教授榊亮三郎の推薦で三高の教授になった。
・亡くなる2ヶ月前、平田の母[妻の母か?]が中野の井上病院に入院中、久志が平田を世田谷の志賀直哉邸に案内したのは最後の挨拶のようなものだったが、志賀夫妻や子供達に厚遇を受け、喜んで帰った。その記事は久志が編輯する『茶わん』(古美術と改題)1月号に書いた。
なお、平田には『近代心霊学』(日本心霊学会、大正14年10月)という著書があり、日本心霊学会(後に人文書院)との関係も気になるところである。

*1:この他、訃報欄があって、72名の学位称号、氏名、卒業年次、住所又は職名、逝去年月日が掲載されている。