神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『小中村清矩日記』に登場していた無名時代の穏田の神様飯野吉三郎

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手元に飯野官吉『穏田の神様 飯野吉三郎』(文藝書房、平成9年8月)という本(以下「本書」という)がある。最初は百万遍の吉岡書店の店頭で見つけた。その時は文藝春秋発行と見間違えて、知らない本だがよくありそうな本だから図書館で借りるかと見送った。ところが、後で調べると文藝書房刊で所蔵する館も少ない。日本の古本屋にも在庫がない。慌てて吉岡書店に行くも、無くなっていた。ガーンと思ったが、昨年9月の京都古書会館古本まつりに出品されていて、買うことができた。吉岡書店は一旦店頭から引き揚げていたようだ。1,000円。
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目次の写真もあげておく。
飯野は正妻を持たず、複数の女性と同居していたが、そのうちの菊地まさみが著者官吉の母に当たる。本書は、遺族として所蔵する貴重な史料や政治家等の日記を駆使した本格的な評伝である。使われた日記は、田中正造寺内正毅原敬、岩野泡鳴、河野広中牧野伸顕松本剛吉等である。政治家等の日記に飯野の名前が出てくるのは、私も幾つか見た覚えがあるが、ここまで集めているのには感心した。岩野泡鳴の日記を孫引きしておこう。

大正六年十一月廿八日。晴。押川氏の話で初めて飯野吉三郎氏に会ひに行つた。向ふは古神道古神道のまま新らしい解釈なしに押し通すべきだと云ふが、僕は解釈を現代的にしなければ無駄だと云つた。(略)

(同年)
十二月六日。飯野氏を訪ふ(けふは例に聴いた剣を握つて見せたが、つまり信念が強いから手が切れぬと云ふのは、木村秀雄氏のやるのと同様心理学的にも解釈ができることだ(略))

「押川」は押川方義。飯野は穏田(現渋谷区神宮前)の広大な家に住み、神社を建て、天照大御神を祀っていた。また、下田歌子・河野らと超国家主義団体(?)大日本精神団を結成していた。
本書では使われていない『小中村清矩日記』(汲古書院、平成22年7月)に飯野を見つけたので、紹介しておこう。

(明治廿八年七月)
廿三日 (略)午後牛込天神丁飯野吉三郎来。一面識無き者也。神の霊験之事尋。守部歴朝神威考之事示し、道守宅を教ふ。(略)

文意がよく分からないが、飯野に「神の霊験之事」を訊かれた小中村が、橘守部の『歴朝神威考』(『歴朝神異例』?)を示し、橘道守(橘守部の孫)の家を教えたということか。博識の皆様、御教示ください。小中村は、明治24年帝国大學文科大学教授を辞し、講師の嘱託を受け、また、23年から貴族院議員であった。本書で官吉は「日露戦争(明治三十七年[一九〇四]二月十日宣戦布告)までの飯野は、せいぜい麹町平河町の先生とか神様といわれる町の易者に過ぎなかった」としているので、この頃はまだ無名の存在だったようだ。26年頃牛込天神町に日本精神講談という塾を開き、3年ほど経つと生徒も減り、29年6月には白木屋への詐欺事件を起こしている。小中村を訪ねたのは、この間の出来事になる。
飯野は、後に日本のラスプーチンと呼ばれ、政界に広い人脈を持ち、予言も当たったようだ。霊術家の側面は確認できないが、押川が「日露開戦後飯野は、児玉と共に渡満して、児玉が事の取捨進退に惑へる時、飯野は傍にあつて常に霊動に依つて彼児玉に決定を与へしめたのである」と書いているという。「児玉」は児玉源太郎。この「霊動」は気になるところである。
ところで、戦前のあやすーぃ人物は、たいてい大本(教)や天津教に接触している。しかし、本書には、

飯野はこれら教派神道の人々と殆ど交わりを結ぶことなく、国体明徴の皇室神道へ傾き、政治に関心をたかめていった。その鎮魂帰神の行法も独自のものであって、禊と霊筆につきるといえた。

とあった。ただ、昭和19年2月3日数え78で亡くなった時の死亡広告は注目すべきである。友人として、頭山満、一条実孝、水野練太郎、柳川平助、塩野季彦、葬儀委員長として白鳥敏夫の名前がある。天津教の信奉者だった名前が何人か含まれている。大正14年の並木事件以降、飯野の社会的生命は絶たれたと言われるが、葬儀にこれだけの人物が集まるのは、尋常ではない。飯野には、まだまだ残された謎があるようだ。