神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

戦時下における鈴木鎮一のヴァイオリン教室と岡田茂吉式心霊治療

文学者の日記に霊術家が出てくることがある。拙ブログ「戦時下の霊術家 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した森田草平の日記のような例である。芹沢光治良の日記にも、霊術家に関する目を疑うような記述があった。
芹沢光治良戦中戦後日記』(勉誠出版平成27年3月)から引用する。

(昭和十八年)
十月十七日 日 雨
(略)
午後は鈴木鎮一氏を訪問しようとしている(略)
鈴木氏の家は渋谷で玉川電車にのり、上町で下車して、郵便局前で東宝行きバスで、整備学校前で降りるとすぐだった。(略)弟さんの文夫さんにも会う。文夫さんのお子さんがはれものができたのを治療していたと言っていたが、鈴木さんは岡田茂吉という人の門下生になって、心霊治療をはじめているが、なかなか熱心で話していて愉快であった。文夫さんの子供はすぐになおったらしい。お力をもらえば、飛行機が来ても大丈夫だと自信があった。(略)今日はすっかり元気で、日本が神国だと一心に説いていた。岡田さんの結核問題と其解決策*1という著書をもらって帰った。
十一月二十一日 日 晴
(略)
午後、鈴木鎮一氏を長女と訪ねた。(略)一時間待つ。実にみごとなヴァイオリンの音がしている。その奏き方、音色等から大人の稽古を予想したが、それが国民学校四年生と二年生だったと聞かされて驚いた。(略)
(昭和十九年)
二月十三日 日 晴、暖かなり
暖かである。鈴木鎮一氏邸で勉強会があるというので午後、子供等を全部つれて行く。(略)皇姪[愛新覚羅]慧生さんは玲子ぐらいであったが、すなおにバッハの「メヌエット」をよくひいた。
(略)

[ ]内は、校閲者による補注

鈴木鎮一は著名なヴァイオリニストで明治31年生。昭和6年世田谷に創設された帝国高等音楽学院教授となる。12年から自宅でヴァイオリンの指導をしていた。18年同学院は解散、鈴木ヴァイオリンの木曽福島工場長となる。弟に二三雄(明治33年生)がいるが、日記中の「文夫」がそれだろう。鈴木鎮一の弟が岡田茂吉の門下生で心霊治療をやっていたようだ。二三雄も兄同様ドイツに留学した音楽家。東京交響楽団の首席チェロ奏者や作曲家として活躍するが、昭和19年名古屋に戻り、空襲で爆死したという。戦時下の鈴木鎮一邸で岡田茂吉式心霊治療が行われていたわけでビックリですね(・_・;)
(参考)井上さつき『日本のヴァイオリン王 鈴木政吉の生涯と幻の名器』(中央公論新社平成26年5月)

*1:岡田茂吉結核問題ト其解決策』(坂井商事出版部、昭和17年