神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

高橋箒庵が見た閨秀画家野口小蘋と小蘋挿画『画法自在』(博文館)

f:id:jyunku:20200127192435j:plain
日記の人名索引については、「おまいら、くだらないブログを書いてる暇があったら、索引をつくれ! - 神保町系オタオタ日記」で言及しことがある。谷沢永一クラスになると「人名索引より事項索引を」と言っていたが、わしクラスでは人名索引があればよい。ところで、最近ハマッている高橋箒庵(本名義雄)の日記『萬象録』には人名索引がない。実は、「凡例」には「解説及び人名・事項索引は、最終巻の巻九に収める」とあるのに、巻8刊行後20年以上経つが巻9は未だ刊行されていない。今さら出版してくれとも言えないので、思文閣にはせめて人名索引だけでもネットで公開してほしいものである。
さて、巻5に野口小蘋(のぐちしょうひん)が出てきた。最近関心を持っている女性画家である。

(大正六年)
二月十八日 日曜日 晴/寒暖計四十八度
(略)
[野口小蘋女史死去]
帝室技芸員野口小蘋女史昨日午前十一時死去す。享年七十一なり。女史名は親子、字は清婉、弘化四年正月大阪に生る、本姓は松村、明治十年野口氏に嫁し、京都の日根対山に師事し南宗[宋]画法を究め、又学を好みて詩を能くし画論に精しく書道に通じたり。余は今を距る事十五年前の大晦日に下條正雄氏の番町邸を訪問せしに座に小蘋女史あり、因て当代男女の大家が一堂に会したる記念として余の為めに合作を試むべしと言ひたるに、下條氏は急に筆硯を呼び、来年は夘年なれば兎を画くべしとて絹本の下の方に兎二疋を描きたるに、女史は上に旭日、下に福寿草を描き添へて新年の床に適当なる一幅首尾克く出来上りたり。其時小蘋女史の画風を見るに、軽々筆を下して何等渋滞なく積年の鍛錬到底近代画家の及ぶ所に非ず。されど其節は唯閨秀として珍しき画家なりと思ひたる迄なりしが、其後日本橋倶楽部にて蘭亭会の催しありたる時、女史の筆に係る蘭亭図一双の屏風を出品したる者あり。会稽山陰景色中に散点する人物の皆な能く活動し居るを見て、女流にして斯かる大手腕ある者は古今唯一人なりと思ひぬ。古来日本閨秀画家には狩野家に女雪信あり、大雅堂の室玉蘭、柳川星巌の室紅蘭あり、近くは奥原晴湖如き者ありたれども、小蘋の如き実力を具ふる者は断じて比類ある可からず。(略)扨て余の女史に面会したるは女史が五十六、七歳頃なりしが、風姿清楚にして其盛年の艶麗を偲ばるゝ程なりき。されども言語は明晰にして稍男性的なりしやう記憶す。惜むらくは女史死して閨秀画家中に堅実なる女史の筆致を相続する者なきを。
(略)

箒庵がベタ褒めしてるね。箒庵が出会った明治35年時は数えで56歳である。明治期の小蘋が挿画を画いた『画法自在』(博文館、明治31年3月)を持っているので紹介しておこう。本の構成は、目次の次に小蘋の挿画が100頁続く。
f:id:jyunku:20200127192518j:plainf:id:jyunku:20200127192543j:plain
その後上段にヴァンダイク「西画鑑賞法」の翻訳、下段に野口勝一「画法自在」が続く。上下に特に対応関係はない。NDL ONLINEは野口著のみ記載、CiNiiは奥付から大橋又太郎編としていて、チグハグである。「近代書誌・近代画像データベース」はすべて記載している*1。なお、既に蔵書印さんに御教示いただいた「社章」と同じものではあるが、本書裏表紙に「戦前期における裏表紙に刷られた出版社ロゴマークの美学 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した博文館の「社章」とは別の種類の物があった*2
f:id:jyunku:20200127192559j:plain

*1:ただし、タイトルが『画学自在』となっている。

*2:中心に旧蔵者の「幸太郎」印が押されている。