神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

堀内庸村と共に青年日本社(青年文化振興会)を創立した東白陵

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三密堂書店の100円均一台で東白陵という木津高校の教師であった画家の伝記を見つけた。牧野芳子『鹿背山の画教仙人東白陵』(平成12年7月)である。知らない画家だし、木津高校とは縁もゆかりもないが、略年譜の昭和7年の条に「堀内庸村氏と青年文化振興会[ママ]を起こす(全国の青年に対し純粋文化運動を起こす。昭和25年当時、京都府綴喜郡青谷村を中心に支部あり)」とあったので、購入。堀内については、わしも「もし書物蔵の畏友オタどんが戦後の堀内庸村を調べてみたら - 神保町系オタオタ日記」で言及したことがあるが、何と言っても書物蔵「戦時読書運動の決定的瞬間:堀内庸村と国民読書」『文献継承』13号(金沢文圃閣、平成20年12月)に詳しい。あらためて見ると、昭和16年2月に「青年文化振興会」と改称される「青年日本社」の創立年(昭和13年)について、「東の伝記では1932年ごろのことであったとされる」とあった。なぜか書名が書かれていないが、本書のことだろう。
年譜から、東の経歴を要約すると、

明治31年 長崎県西彼杵郡生。本名克己
大正4年 沼津中学校卒業
大正5年 安田靭彦画伯に師事
昭和2年 川島理一郎画伯の主宰する金曜会に入る。
昭和5年 棟方志功とも親交を深める。
昭和18年 国画会の会友推挙
昭和20年 東京大空襲。大森のアトリエや模写その他の全作品を焼失。加茂の当尾に移り住む。
昭和25年 府立木津高等学校の図工科教師になる。鹿背山不動院に移り住む。
昭和33年 木津高校教師を退職
昭和36年 没

青年文化振興会については、本文中に「昭和七年、白陵は堀内庸村氏と青年文化振興会をおこし、全国の青年に純粋文化の運動を呼びかけるが、時代の流れに押されて消えてしまう。しかし白陵はこの時、感受性豊かな青年期にこそ美術文化を伝えることの大切さを、仲間と話しあった」とあるくらいである。東が持っていたであろう青年日本社の機関誌『青年日本』や日記も空襲で焼けてしまっただろう。『青年日本』は書物蔵氏が接触した堀内の遺族のもとにも無かったようだが、いつかどこかの均一台で出会えるだろうか。