神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

南木芳太郎と山田寅次郎ーー『明治の男子は、星の数ほど夢を見た。ーーオスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎ーー』を読んでーー

堂島の本おやで10月20日まで開催中の「本のヌード展」で購入した和多利月子『明治の男子は、星の数ほど夢を見た。ーーオスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎ーー』(産学社、平成29年。以下「本書」という)。挟み込まれた説明文によると、深紅のカバーを脱がして裸にした本体の用紙はファーストヴィンテージのターコイズブルー、二色刷の本文で使われた臙脂色もトルコ帽の色でトルコ尽くしにしたという。山田寅次郎という人物は、帯のコピーによれば、「オスマン帝国軍エルトゥールル号遭難事件の義捐金活動をきっかけに、日本とトルコの友好の礎を築いた山田寅次郎。民間外交官、実業家、茶道家元、そしてオスマン帝国皇帝のアートディレクター」であったという。私も名前は知っていて、知ったかぶりをして本おやさんに「日本における初期のイスラム教徒ですね」と言ってしまったが、どうも入信は確認されていないようだ。
著者の和多利氏は山田の孫で、本書は山田家に伝わる各種史料もふんだんに使用されている。また、「和多利」という名前にピンと来る人もいるだろうが、著者はワタリウム美術館CEO和多利浩一氏の妻でもあり、同美術館に設置された「山田寅次郎研究会」を主宰されているという。それではさすがのオタどんも補足するようなことはなかろうと思ったが、そういえば南木芳太郎の日記に山田が出てきて不思議に思ったことを思い出した。あらためて『南木芳太郎日記一』(大阪市史料調査会、平成21年)と『南木芳太郎日記二』(同、平成23年)を見てみる。

(昭和五年)
三月四日 曇
(略)山田寅次郎氏より依頼、本に就て。
八月九日
(略)山田寅次郎氏九月初旬シベリア経由土耳古に趣かれるとの報あり。(略)
八月十九日
(略)
山田寅次郎土耳古へ来月初旬シベリア経由にて立たれるとの事。爽やかに長途を吹けよ秋の風の一句を送る。
(昭和九年)
四月四日
(略)大阪天満着。それより白髪橋岸本五兵衛氏邸の稲荷祭と人形結婚式の披露に出席。山田宗有氏・中井浩水氏・松阪青渓氏・井葉野華兄親子などの顔触れにて猫稲荷の縁起を聞き、支那料理の御馳走になり、十一時頃辞して帰る。(略)
(昭和十一年)
一月七日 
(略)
予記
七福神初めぐり(山田氏より案内)。
発信
(略)山田寅次郎・新福寺・長谷川小信・木谷蓬吟「上方」。

これによると、山田は昭和5年にトルコへ旅立つ予定があったようだが、本書218頁によると20年以上振りにトルコへ旅立ったのは昭和6年9月とあるので延期されたのであろう。昭和11年1月の記載は南木が主宰していた大阪の郷土研究雑誌『上方』の同月に発行された61号に山田宗有名義で「新年の弊庵」が掲載された関係だろう。なお、「宗有」は山田が茶道宗へん*1流八世家元を襲名してから名乗ったものである。
『南木芳太郎日記』の空白部分を補完するものとして、『上方』に断続的に掲載された「萍水日誌」がある。同誌25号、昭和8年1月に掲載された分によると、

(昭和七年)
十二月十四日
茶道宗へん流の宗家山田宗有氏の義心亭にては正午より六時迄義士快挙の記念茶の湯会が催され終日来客で振ふ(略)

この「義心亭」は、本書211頁に元禄時代より続いた家の茶室で赤穂浪士の関係者の持ち物だったため、友人の阪谷芳郎命名、毎年12月14日に「義士茶会」を開催したとある。
南木と山田の関係はよくわからないが、伊達俊光『大大阪と文化』(金尾文淵堂、昭和17年)の「趣味の岸本亭」には、

(略)岸本[五兵衛]氏の知人であり、私の友人でもある土耳古通を以て聞えた希臘名誉領事の山田寅次郎さんの許にその相手の男子の人形がある事を南木芳太郎、中井浩水の両氏から聞き込まれ、爾来岸本家からの懇望に依て山田家から同家へ聟入することになり、昨年四月吉日此人形の結婚式が行はれた(略)(昭和十年五月五日)

とある。前掲『南木芳太郎日記』昭和9年4月4日の条がまさにこの人形の結婚式だが、山田は南木らの大阪趣味人のネットワークの一員だったのだろう。
以上、私が気付いた事を補足してみた。もっとも、本書120・122頁に『大大阪と文化』の「山田寅次郎氏と初見の記」を引用されているので、大方既知のことかもしれない。

明治の男子は、星の数ほど夢を見た。-オスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎

明治の男子は、星の数ほど夢を見た。-オスマン帝国皇帝のアートディレクター山田寅次郎

*1:行人偏に「扁」