神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鹿野治助日記から見た戦時下における本野精吾の絵画教室

書砦・梁山泊から8600円で買った鹿野治助の日記。京都学派の哲学者に関する記載だけで元は取れるが、戦時下の本野精吾に関する記載も興味深い。

(昭和十七年二月)
二十五日 水
午後本野さんと訥庵先生の曾孫大橋氏を訪ねしも留守、本野さんの家で、畫を見せて貰つたり南畫の説明をしていたゞく。
(同年、月日の記載なし)
夏休み中一週に二度本野先生宅へ南畫を習ひに行く。先生仲[ママ]々眞面目なり。
(同年)
十月二十二日 木
本野先生宅にて岩と松を畫く。筆を沢山見せて貰ふ。鼠のヒゲでつくれるもの、狼の毛でつくれるものなど、それ/\□味ありて面白し。
(昭和十八年)
五月二日 日
石窗会を西山の筍山に開催。
本野先生、安藤*1氏夫妻、川那部氏、長岡氏(香雪軒)、平島*2、西村、小生の八名也、先づ[ママ]七賢人也。(略)

鹿野は当時京都高等工芸学校の外国語の教授で、本野も同校の教授であった。本野が鹿野に教えた南画に関しては、『建築家本野精吾展ーーモダンデザインの先駆者ーー』(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、平成22年1月)によると、

本野は1930年代の半ば頃から、南画を手掛けるようになる。本野が住宅の設計を手掛けた南画家の大橋兼[ママ]堂との出会いに始まったようだ。(略)「石窓」を雅号とした。

本野は、同書の年譜によれば昭和18年に京都高等工芸学校を辞職し、同校の非常勤講師に就任するも、19年8月26日に逝去する。鹿野の日記は、晩年の本野の動向をうかがえる貴重な資料でもある。
(参考)「鹿野治助の日記から見た物語「京都学派」再び

*1:講師の安藤康雄か。

*2:助教授の平島剛か。