数年前の寸葉会で仏教図書出版の社屋の図面(『仏教図書出版株式会社建物平面並表面略図』)を購入した。何回か見かけたのだが、売れ残っているので私しか買う人がいないだろうと買ってみた。ひげ美術出品、1000円。図面によれば、1階に製版部、印刷部、鋳造部、重役室、本店、工場事務室、校正部、母型製造室などで、2階に株主重役来賓室、編集室があった。敷地380坪、建坪266坪。考えてみれば、明治・大正期の京都における仏教書の出版社の平面図、立面図なんて中々入手できない貴重なものかもしれない。
仏教図書出版は、『京都書肆変遷史』(京都府書店商業組合、平成6年11月)から要約すると、
仏教図書出版 後 蔵経書院
創業者 西村七平(法蔵館2代目)
創業年 明治31年
創業地 下京区西洞院通松原上ル
業種 出版業
明治31年頃 法蔵館西村七平は早くから家督を3代目七兵衛に譲り、有志と共に仏教図書出版(株)を設立。
明治35年から38年 『大日本校訂訓点大蔵経』(略称卍字蔵経)を製作。
大正元年 『大日本続蔵経』(略称卍字続蔵経)を完結
大正15年末 出版部門を閉じ、工場の責任者だった松崎辰三郎が同設備一式を引き継ぎ松崎印刷(株)として独立
蔵経書院については不明だが、鴎外の書簡で出会って驚いた。明治37年4月9日付け日露戦争従軍中の鴎外から下京区油小路通松原上林鹿町の「図書出版株式会社蔵経書院」宛の書簡である。内容は、「続蔵の事いよ/\御決定小生をも評議員に御推薦被下候由何の御助力にも相成不申候へとも喜んで御請申上候」とある。鴎外は卍字続蔵経と思われるものの評議員を引き受けたようだ。
『京都書肆変遷史』では蔵経書院は仏教図書出版の後身のような記載だが、国会図書館サーチで検索すれば仏教図書出版と蔵経書院は併存していたらしい。小川独笑著、岩佐静諦編『大蔵経抜鈔総目録』(蔵経書院、明治44年10月)を見ると、所在地は京都市下京区油小路通松原上ル麓町で、鴎外全集が「林鹿町」としているのは「麓町」の誤りということになる。発行者は角倉秀道。仏教図書出版と蔵経書院の関係はもう少し調べる必要がある。なお、京大に「蔵経書院文庫」があるようだ。
追記:法蔵館のホームページの「京都仏教書肆創業一覧」によると、仏教図書出版は明治31年頃~明治35年頃、蔵経書院/図書出版は明治35年頃~大正15年の期間存続したようだ。国会図書館サーチで仏教図書出版と蔵経書院が併存したと見るのは誤読かもしれない。
更に追記:平成28年12月3日・4日大阪樟蔭女子大学で開催された「平成28年度冬季全国大学国語国文学会第114回大会」で、大正大学大学院生岩谷泰之氏が「森鴎外と仏教ーー『大日本続蔵経』を中心にーー」を発表されていた。蔵経書院の機関紙『大蔵経報』に記されていた鴎外に関する記述を中心に調査したという。