神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

勤労女学校や印刷学校も設立した希望社の後藤静香

長崎県立高等女学校で田代善太郎と同僚だった後藤静香(ごとう・せいこう 1884-1969)。希望社という出版社を創立したということなので、調べたら面白そうな人物であった。『大正人名辞典Ⅱ』下巻(底本は『大衆人事録』昭和3年版)から要約すると、

後藤静香 勤労女学校主 希望社主 日本印刷学校主
東京府豊多摩郡大久保町西大久保町
明治17年8月 大分県人後藤成実の長男として生まれる。
39年 東京高等師範学校卒業
長崎県立高等女学校教諭、香川県立女子師範学校教諭を歴勤
大正7年 希望社を創立
教育教化を目的として雑誌『希望』『のぞみ』『泉の花』を発行。誌友四十万を越ゆと称する。
勤労教育を実際に行うため勤労女学校を設立し、印刷業者養成のため印刷学校を興し、読書会を奨励して相互教育普及を計る等一般社会教育のため盡瘁する処少なからず。

『日本エスペラント運動人名事典』にも立項されているので、そこから補うと、

昭和4年 希望社にエスペラントを導入。石黒修らと全日本エスペラント連盟を結成。
8年 印刷部ストライキと後藤の個人的醜聞のため、希望社は解散
高崎市に後藤静香記念館。

「勤労女学校」は『田代善太郎日記昭和篇』26頁の注によると、「希望社出版物の製本を手伝うなど働きながら学ぶ私立の女学校があった。生徒は誌友の子で全国各地から集まり寮生活をしていた」という。また、希望社の建物は後に新宿の伊勢丹に使われたようだ。同書25頁の注によると、「『希望』『のぞみ』『かがやき』など個人誌ながら発行部数が創立以来10年間に飛躍的に伸び、社員もふえて新大久保の社屋では手狭になったので西大久保に新館(当時としては破格な鉄筋コンクリート3階、講堂つき)が建設されることとなった。このころからの経済的な無理が数年後に失脚の原因となり、のちに建物は新宿の百貨店「伊勢丹」にわたる」とある。雑誌は広告を取らなかったそうで、同書154頁の注には「大正7年『希望』創刊以来10数年、年少勤労者向けの『のぞみ』学生向けの『学徒』盲人向けの『かがやき』を出すまでに伸びてきた希望社であるが、教養をめざす後藤静香氏の個人誌で、広告をとらずしかも安い誌代で運営してきた」とある。
後藤はウィキペディアによると今も影響力のある人物のようだが、全然知らなかった。しかし、田代の日記の他にも福田與『満天の星を仰ぎて』にも出てきて、驚いた。福田の岡山県立倉敷高等女学校時代(大正7年-12年)のこととして、

私は後藤先生の講演があると聞こうものなら、かなり遠い所へでも平気で出かけていったものでした。とにかく後藤先生の話に耳を傾け『希望』を読むようになってから、たしかに私の生活態度は変わってまいりました。

印刷学校の経営や読書会の奨励の詳細については、今後の課題である。

日本エスペラント運動人名事典

日本エスペラント運動人名事典