「ぐろりあ・そさえて」という出版社については、「「ぐろりあ・そさえて」社員山田新之輔と竹内好 - 神保町系オタオタ日記」や「「ぐろりあ・そさえて」の若林つや - 神保町系オタオタ日記」などで話題にしたことがある。高橋輝次氏は『古本が古本を呼ぶ』(青弓社、平成4年5月)の「ぐろりあ・そさえて寸描」で同社の東京時代の社員として、「『コギト』同人でもある東京帝国大学出の詩人、山田新之輔や池沢尻、のちに檀一雄の妹と結婚した長尾良がいた。さらに同人の若林つや女史も編集部にいた」としている。今回、歌人宮崎智恵も社員だったことが判明した。入籍はされなかったが、民俗学者早川孝太郎の夫人である。
須藤功『早川孝太郎 民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房、平成28年11月)から引用する。宮崎と早川の出会いは、
宮崎は出版社「ぐろりあ・そさえて」の編集者で、早川の『農と農村文化』を担当、早川がナイトと書いたのを「騎士」と直したことに、「同じように私も直したいと思っていたところで、たいへん嬉しい。これからも、ぼくの文章を直してください」といったのが、親しさを増すことになったという。島根県津和野町に生まれた宮崎は文芸を深く理解するとともに、歌人として認められ始めていた才媛で、早川より三十若かった。
また、宮崎の「ぐろりあ・そさえて」退社については、
早川は「ぐろりあ・そさえて」に二冊目の『農と祭』の原稿を入れていたが、智恵は(昭和十七年)四月末日にそこを退職し、母と姉が住む山口市の家に帰っていた。
宮崎の入社年は、『花泉:歌集』(日本歌人発行所、昭和27年9月)の「後記」に昭和14年春、前川佐美雄と保田与重郎の言葉添えで入社し、「ここでの三年間は自分だけを見てゐてよかつた少女時代のをはり」としている。宮崎は「ぐろりあ・そさえて」で妻のいる早川と知り合い、退社後長野で早川と同居することになる。
ところで、宮崎は萩原朔太郎と出会っていた。『花鏡』(短歌新聞社、昭和61年7月)の「略歴」によれば、
大正4年6月 島根県鹿足郡津和野町生
昭和2年 県立津和野高等女学校卒。福岡県立女子専門学校国文科入学。のち退学
昭和12年 帰郷中の伊藤佐喜雄を識る。秋、伊藤の紹介により上京。保田与重郎に会う。萩原朔太郎、中河与一邸などに連れていかれる。
朔太郎に会ったのは一度だけだろうか。戦後の『風祭:歌集』(甲鳥書林、昭和37年8月)に次のような歌があった。
萩原朔太郎にまみえたる日は貧しくてわがたづさへし菊束小さき

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