神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動家だった中山忠直

『近代日本社会運動史人物大事典』には名前の出てこない中山忠直だが、本人によると監獄部屋(タコ部屋)撲滅運動に尽力したという。『日本に適する政治』(中山忠直、昭和15年11月)によると、

明治から大正十年頃まで、北海道や樺太に監獄部屋とて、人夫を誘拐して強制労働せしめる奴隷制度があつた。安部磯雄、鈴木文治の如き労働運動家も、命が惜しくて手出しが出来なかつたモノである。ここに於てか余は輿論を捲き起し、当時の一大社会問題と化せしめて遂に警保局(当時の局長後藤文夫)との戦ひに勝ち、北海道に移動警察制度を設けさせ、この悪制度は日本から地を払つた。コレは真に命がけであつた。二十七歳の時である。
この監獄部屋を打破して見て、この悲劇の原因が資本主義制度の欠点でなく、実は罪は労働者の側にあることを覚り、ここに於て西洋的改革の愚を覚り、過去の一切を清算して、真の日本主義を自覚し(二十九歳)。その第一著として漢方医学の復興の叫びを上ぐるに至つた(三十二歳)

中山が数え27歳となるのは、大正10年。中山啓名義の「『監獄部屋』に就て」は『中外』大正10年8月号掲載。後藤文夫が内務省警保局長だったのは、大正11年6月〜12年10月。中山が運動をしたのは、大正10年から11年にかけてと見てよいか。
また、ヨコジュンさんが某誌で連載した中山の評伝「中山忠直を取り巻く人々 明治快人録」で言及しているが、宮武外骨『私刑類纂』(半狂堂、大正11年10月)の「此世の活地獄(監獄部屋)」に「今春中山啓子等が此非人道事実を捉へて『監獄部屋打破の叫び』といへるを発行し、社会問題として大に輿論を喚起せし」とある。この『監獄部屋打破の叫び』と同題の本が、白石健次郎著で大正11年5月に全国土木総同盟会から発行されているが、外骨が中山の記として引用している文章はなく、別物のようだ*1。いずれにしても、この中山の監獄部屋撲滅運動については、どなたか関心のある人に研究していただきたい。

このように一時期は社会運動家で、ヨコジュンさんによると堺利彦の売文社にも加わっていたと言う中山だが、前掲書では、次のような驚くべき告白をしている。もっとも、当時中山がそれほど大物だったわけではないから、いささか信じがたい告白である*2

今だから告白するが、大杉栄の葬式の時、大杉の遺骨を奪はせ、大切に某所に安置し、世間に大騒ぎさせたのも余であつた。岩田文(ママ)夫はアレで有名になつた

(参考)「北署吉の弟子中山啓=中山忠直」(4月27日

*1:なお、外骨が引用する中山の二つの文章のうち、一つは『中外』掲載の論説と一致する。また、同論説中に誘拐業者の氏名を「白石氏」から聞いたと書いている。

*2:ヨコジュンさんは当時の新聞に中山の名前が出てくると書いていたが、確認できなかった。しかし、取調べを受けた大化会会員の中に石黒敬七の名前を見つけ、驚いた(大正12年12月20日付東京朝日新聞)。