神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東京国際倶楽部に結集したアジア人

 大正期に存在した東京国際倶楽部については、2月4日に言及したが、『満川亀太郎日記』には既に紹介したもののほかにも同倶楽部に関する記述がある。

大正15年3月14日 東京国際クラブ(欠席)

    6月13日 国際クラブの会
         伊太利大使館員のフアシスチ談
         馬伯援君の 支那近情

    6月28日 午后五時半
         東京国際クラブ晩餐会
        
昭和2年3月6日 午后六時文化アパートメントに於ける東京国際クラブ主催戴天仇君歓迎会に列す        

 これによると、少なくとも昭和2年まで存在していたようだ。上記のうち、大正15年6月13日の会の詳細については、アジア歴史資料センター所蔵の文書で見ることができる。同センターのホームページで閲覧できる「東京国際倶楽部例会ノ件」(大正15年6月14日付け外秘第1493号、警視総監太田政弘通知)によると、同日の本郷区元町一ノ五文化アパートメントにおける定例茶話会の出席者は、田鍋安之助、米国人パウル・ケート、箱木一郎、永井叔、満川亀太郎、下位春吉、石川三四郎、木下乙市、鮮人権無為ら48名である。箱木は、2008年10月21日に出てきた世界文庫刊行会の箱木だろうか。ただし、刊行会の箱木(明治29年1月9日神戸市生、昭和46年1月23日没)は大正12年4月上京後、賀川豊彦の紹介で沖野岩三郎の屋敷に寄寓したとされる*1が、沖野は下落合に住んでいたので、同倶楽部出席者の箱木の住所(大正15年現在西大久保)とは異なり、同一人物とは確認できていない。
 また、同文書によると、「本倶楽部員安南人陳福安、鮮人権無為、木下乙市、箱木一郎、印度人「ボース」等は亜細亜各国の合同白人の横暴膺懲を標榜して無名会なるものを組織し居れるが来る十九日午後二時より府下西大久保四七〇箱木一郎宅に於て陳福安主催の下に「越南国憂国志士追悼会」を開催の予定なり」とのこと。ボースが出てきた。

 ところで、東京国際倶楽部に参加した会員は、コスモ倶楽部*2の元会員だった人が多いようだ。同じくアジア歴史資料センター所蔵の「東京インターナショナル倶楽部ニ関スル件」(大正15年4月23日付け外秘第973号、警視総監太田政弘通知)によると、東京国際倶楽部は、元コスモ倶楽部会員だった宮崎龍介、鮮人権無為、同元鐘麟、台湾人黄登洲らが大正14年12月に創立した東京大同倶楽部を改称したものだという。なお、松尾尊兌論文によるとコスモ倶楽部会員の権熙国は、中国名*3として権無為を名乗っていたという。権熙国=権無為だったとは・・・
 また、松尾論文は、権について、早大在学中「川村竹治ヨリ学費ノ支給ヲ受ケ妻モ共ニ間借生活ヲナシ通学ス」(「要視察朝鮮人要覧」警視庁特別高等課内鮮高等係調整、大正13年9月末調)とされ、「川村竹治」が原内閣の警保局長と同一人物であるとすれば、権の素性はますます怪しい、としている。秋田が大正11年3月16日に権をスパイ云々と言っていることと関係ありそうだ。

*1:「発明と私<1>門前の小僧」『印刷新報』昭和44年2月3日号

*2:3月22日参照。

*3:同通知によると、大正15年4月10日永井叔が主催した大空社茶話会には、ケートや秋田雨雀のほか権無為も列席しているが、権の名前には「(支那人)」と記されている。