神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

松宮春一郎年譜

わしとか書物蔵氏が、無名の人物の年譜を作ってしまう情熱はどこから来るのであろうか。さて、世界文庫刊行会を主宰していた松宮春一郎については、何回か記事にしてきたが、その後判明した事項も含めて、年譜を作ってみた(著訳書は原則として省略)。
しかし、関心のあるのは、安藤礼二氏くらいかしら*1

松宮春一郎年譜

明治8年 生(享年から逆算)

32年7月 学習院高等学科卒業(『学習院一覧』)

  35年6月25日 近衛篤麿(学習院長)の紹介で池辺三山(東京朝日新聞主筆)を訪問。入社の依頼談(池辺の日記)

    7月 学習院大学科卒業(『学習院一覧』)

  35年〜大正10年 『外交時報』(外交時報社)に執筆(皓星社雑誌記事索引集成データベース」)

  38年12月 『最近の韓国』(早稲田大学出版部)刊行(「序」によると、数章は『外交時報』に掲載したもの)

  39年1月現在 電報新聞記者。同僚に羽仁吉一、大野若三郎、窪田空穂、中山太郎、宮崎湖処子(「新聞社内情調 全 明治三十九年一月調」。同年9月調査分に松宮の名はない)

  44年 杉浦重剛の私塾「称好塾」の塾友(『称好塾報』)

大正6年6月13日 尾張町松本楼で開催された、国民外交同盟会及丙辰会、国民義会の合同主催による中西正樹、佃信夫の両氏、渡支の送別を兼ねた対支有志懇親会に出席(『亜細亜時論』(黒龍会出版部)1巻1号)

  7年9月1日 阿部次郎を訪問。十余年ぶりの対面。Wendland:Die hellenistisch-römische kultur の翻訳を頼む(阿部の日記)

    9月30日 丸ノ内中央亭での第二回同人小集に参加。他に中山、久保田米斎、内田魯庵柳田國男、大野、林若吉らが出席(『同人』29号)

  8年 吉川英治が世界聖典全集刊行会の筆耕仕事に通ってくる(吉川英治の年譜)

    3月7日 阿部に亡妻追悼録を送る(阿部の日記)

    5月17日 阿部に使の水谷某をやる(阿部の日記)

  9年 

    1月〜10年3月 世界聖典全集の前輯刊行

    7月 石田友治、水野葉舟とともに江渡狄嶺の可愛御堂建造を決める(同年8月10日付東京朝日新聞

    7月17日 大野没。以後『同人』の発行兼編輯人となる(谷沢永一柳田国男と同人小集」『谷沢永一書誌学研叢』など)

    11月26日 永楽倶楽部での第二十二回同人小集に参加(『同人』52号)

  10年4月22日 杉浦を訪問(杉浦「致誠日誌」)

    4月26日 杉浦を訪問(杉浦「致誠日誌」)

    11月『新真婦人』102号(西川光二郎・文子の次男和の追悼号)に弔詞

  11年1月16日 久保田に世界聖典全集の装幀を委嘱(久保田米斎日記)

    1月27日 工業倶楽部での同人小集と三金会聯合の柳田國男君歓迎会に参加(『同人』63号)

    2月15日 陶々亭で世界聖典全集の会を主催。高楠順次郎白鳥庫吉黒板勝美、村上専精、久保田が出席(久保田米斎日記)

    2月22日 柳田國男を訪問(柳田「大正十一年日記」)

    2月24日 本郷燕楽軒での第三十六回同人小集に参加(『同人』64号)

    6月〜12年8月 世界聖典全集の後輯刊行

  12年11月 『読書論』(世界文庫刊行会)を編集。9篇のうちソローの「読書論」は三浦関造の訳、他の8篇は浅田清造の訳

  13年5月 高楠主幹の『現代仏教』創刊。編輯同人となる

  15年 長谷川誠也、増田正雄とともに中山太郎後援会を作り、研究を援助(中島河太郎編「中山太郎年譜」)

昭和4年2月28日 山懸純次(興亡史論の製本者)の告別式で弔辞(日向甲編『追悼録』)

  6年9月5日 多賀羅亭での新仏教の座談会に出席(?)(『秋田雨雀日記』)

  8年6月18日 大森区千束町239の自宅で没、享年59。肩書きは中央大学事務部長(同月20日付東京朝日新聞。同紙の死亡広告で友人総代の一人に中山の名がある)

*1:2008年3月25日参照。このときの、安藤氏のコメントは「安藤礼二です。貴重な情報ありがとうございます。松宮自身の人となり、おそらくは抱いていた思想については、折口と同じ巻に松宮が執筆した「バハイ教」、さらには埴谷雄高の『死霊』の源泉となった聖典全集のジャイナ教の巻末に付された解説があります。高楠順次郎の近くにいた人物という見当はつくのですが、あの巨大なシリーズを刊行できた財力、人脈についてはよく分かりませんでした。引き続き調べなければならないのですが、なかなか時間がとれず進んでいません」。