神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

蓑田胸喜『原理日本』への陸軍の関与

佐藤卓己先生による『蓑田胸喜全集第七巻』の解題によると、原理日本社と陸軍との関係については諸説あるが、直接的な資金援助はともかく、『明治天皇御製と軍人勅諭』(原理日本社、昭和7年1月)の八万五千部の実費購入により相当な額の資金が同社に流れ込んだはずであるとされる。この蓑田の原理日本社と陸軍の関係について、従来言及されていない資料があった。『真崎甚三郎日記』である*1

昭和9年6月15日 十一時蓑田胸喜氏次官の紹介にて来訪す。末弘博士を告訴したる顛末を語り、陸軍に関する範囲に援助を乞へり。予は初めて会見なりしも頗る熱狂漢なる如く感ぜられたり。

   8月10日 蓑田一時半に来訪、日本新聞を譲渡しの評ある故之を譲り受くべく研究中なりと云ふ。予は此主旨に賛成し出来得る限り助力すべきを約束せり。

   8月12日 蓑田胸喜、三井甲之午后二時、若宮宇[卯]之助午后四時来訪、各種雑談にて要を得ざりしも、結局美濃部、末広(ママ)の徒を攻撃するに日本新聞にては資力乏しく思に任せざる故、若宮に月に弐千円宛の補助を仰ぎ度きことと、又陸軍よりも末広(ママ)攻撃の一矢を放たれたしと云ふにありしが如く、之に対し予は前者は予の最も縁なく不得意のことなるも出来得る限り努力すべく、後者に就ては部下に研究せしむべし[と]答へ置きたり。

   8月21日 九時に出勤。橋本次官*2来訪、過日予のなせし相談の返事に来る、依て予は直に蓑田に電話して若宮を出頭せしむることとせり。

   8月22日 若宮午后二時来訪す。依て予は次官との談話の内容及経緯に就て説明しおけり。

   8月29日 若宮午后五時半来訪、過日予のなしたる取次ぎに就て謝意を表する為なり。 

   9月30日 蓑田、三井は末弘問題は有望に進みつつあることを主として報告に来れるが如し。

   10月26日 蓑田、三井両氏午后一時半[来]訪、先般予の尽力により陸軍省より日本新聞の援助することとなりたるも、若宮が半分は引きまぎ[ママ]りある為意の如く活躍出来ずとて予に弁明の為に来る。之に対し予は答へたり。予は内部のことに関し立入りたくなし、予は、若宮、蓑田等個々の人間に共鳴したるにあらず、全く其の主義思想なり(略)嗚呼国士の集りて金なくば円満にして、あれば直に争を生ず。人間は社会は此の如きものならん。

  10年1月20日 蓑田午后二時来訪、日本新聞の援助が二月より減額せられざる様又成し得れば原理日本社と区別して支給せられ度希望を有するが如し。予は単に之を取次ぐことを約束せり。

    7月12日 蓑田七時半に来訪、日本新聞廃刊の由を伝ふ。此の重大なる時期遺憾千万なり。 

    9月22日 五時蓑田来訪す。主として新築祝の為なり。彼は又其経営にかかる原理日本来月以て百号に達する故、紀念号を発行せんと欲し、従前通陸軍より后援を受けんと[ママ]ことを予にも依頼せんと欲しありしが如し。予も之を諾せり。

注:[ ]は校訂者による注記

真崎は昭和9年1月から陸軍教育総監兼軍事参議官、10年7月から軍事参議官。佐藤先生の解題によると、昭和9年から1年間原理日本社は本社とは別に、若宮が主筆を務めた『日本』の日本新聞社内に原理日本社事務所を構えていたという。また、若宮の追悼文(『原理日本』昭和13年6月号)には、昭和10年8月『日本』が突如休刊した際、我等同人が意見を異にし、袂を別ったことは遺憾である旨の記載があるという。真崎の日記によると、原理日本社と『日本』が一体として軍から援助され、また、当初から蓑田らと若宮の間に確執があったことがうかがえる。

(参考)佐藤先生の論考には、田代順一も出てくる。「『原理日本』には多くの詩歌が収録されているが、歌稿送付先は蓑田の編輯部ではかった。当初は田代順一が選者となったが、田代の病気(第五二号=一九三〇年九月号「しきしまのみちの戦士 田代順一追悼号」を参照)により第四七号(一九三〇年三月号)から三井甲之が選者をして詩歌欄の編輯を行った」とある。なお、この田代順一追悼号に「田代順一氏略年譜」が掲載されているようだ。昨年11月17日参照。

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にゃんと、小谷野敦「母子寮前」(文学界9月号)が第144回芥川龍之介賞候補に。

*1:引用に当たり、片仮名書きを平仮名書きに改めた。

*2:陸軍次官の橋本虎之助中将