黒岩比佐子さんの『パンとペン』332頁に、内藤民治の『中外』の創刊を支援した実業家として登場する堤清六。
内藤民治『堤清六の生涯』(曙光会、昭和12年8月)を見ると、
三萬部からの月刊雑誌「中外」十月号が、刷り上つて、秀英舎の中庭に山と積まれた九月の一夜、創刊の祝宴が神楽坂の料亭「ときわ」の大廣間で開かれた。思想界、文學界、美術界、新聞関係、その他政治、経済、外交界、いづれも一家見を有する一流知名の士−田中王堂、三宅雪嶺、田中萃一郎、野口米次郎、谷本富、太宰施門、横山健堂、福田徳三、服部文四郎、蜷川新、前田蓮山、大山郁夫、松山忠次郎、坪内逍遙、松崎天民、生田長江、堺利彦、新渡戸稲造、澤柳政太郎、植原悦三郎、山川均、高畠素之、今井嘉幸、荒畑寒村、大庭柯公、永井荷風、岩野泡鳴、上司小剣、與謝野鐵幹、谷崎潤一郎、片上伸、徳富(ママ)蘆花、田山花袋、泉鏡花、島崎藤村、馬場孤蝶、正宗白鳥、有島生郎(ママ)、若山牧水、荻原井泉水、添田壽一、寺尾亨、戸水寛水、芥川龍之介、武富時敏、等々百二十何人かの賓客のために開放された。
錚々たるメンバーだが、全員本当に出席したかは疑問である。坪内や徳冨*1の日記には記載がなく、少なくともこの二人は出席していないのではなかろうか。
内藤の書によると、内藤の挨拶の後、堤の祝辞があり、その後生田と隣り合って話していた堺がやおら立ち上がって、「例の乾いた、諷刺的な鈴のやうな聲を張りあげ」、内藤に知識と精力はあっても金はないから、堤が援助の保証をしたことに礼を述べたという。
(参考)10月10日