神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

荻須高徳の挿絵が入った木村捨録『壮年的』(あかね書房)のサイン本


 今年も天神さんの古本まつり(10月15日~19日)が近づいてきました。ということで、何年か前に100円均一台に歌集がまとまって出た時に買った木村捨録『壮年的:歌集』(あかね書房、昭和27年7月)を紹介。石原深予先生から御恵投いただいた『論潮』14号(論潮の会、令和3年8月)の石原「尾崎翠全集未収録作品および同時代評等の紹介」に木村が出てきたので、積ん読本から掘り出したものである。同資料紹介は、木村が大正5年6月に創刊した『少年詩歌』(少年詩歌社)に尾崎が「尾崎みどり」名で投稿した短歌を紹介している関係で、木村が出てくる。その一部を引用しておこう。

 なお、第二号「編輯室より」には、「毎月種々とご尽力に預かり私を御励まし下さる」諸氏に「尾崎」の名前も挙がっている。創刊号と第二号どちらにも「尾崎みどり」の他に「尾崎」名の著者が目次に見当たらないことから、これは尾崎翠を指すと思われる。あるいは地方在住の投書家同士で、『少年詩歌』創刊以前の木村と尾崎との間に交流があった可能性もある。

 実は、歌集そのものにはほとんど興味はない。買ったのは「小歴」に挙がる木村の経歴が面白いのと、挿絵に荻須高徳の<<ノルマンデイー海岸>>が載っているためだったと思う。小歴から経歴の一部を要約すると、

明治30年11月2日 福井市
? 順化尋常小学校の頃から『少年世界』や地方新聞に文章や歌を投稿し始める。
? 福井市立商業学校に入り、同級の馬場汐人等と同人雑誌をやり、『文章世界』『秀才文壇』へ詩歌を投書する。
大正5年 丸の内の籾山書店編輯部に就職し、『俳諧雑誌』を担当
? 1年余り勤めて文学的才能の乏しいことが分かり、まもなく同書店が解散することもあり、実業界を志し中央大学商科に入学
大正7[ママ]年 『覇王樹』社友となり橋田東聲を知り、更に依田秋圃、花田比露思とも交わる。
大正9年 中央大学を卒業
? 長瀬商店染料部在勤中に假屋安吉が入社してきて、同人雑誌『雑音の中』を出す。
大正12年の震災の頃 京山商会を興し独立自営

 地方の投書家で同人雑誌を出していた青年が上京して出版社に勤めるというパターンですね。木村は創業した関東大震災の頃は歌から離れたが、事業が安定した昭和6年頃から『覇王樹』に盛んに投稿、昭和7年10月には『日本短歌』を創刊することになる。
 入手した『壮年的』をパラパラすると、135~138頁が破り取られていることが発覚。均一本なので、函・カバー欠、書き込み、破れ、落丁等はあって当たり前である。奥付の有無には気を付けて見ることにしているが、途中の頁の欠は気づかないですね。その代わりにというわけではないだろうが、サインがあった。
 荻須の挿絵については、「自序」によると、

 挿絵とした荻須画伯(滞仏中)のスケッチは戦前に頂いたもので、相当以前の制作品であるが、僕はこの絵が好きで今でも書斎に掲げてゐるやうな理由から、御留守宅へ願つて掲げた。(略)

 「滞仏中」とあるのは、荻須が昭和23年に日本人画家としては戦後初めてフランス入国を許され渡仏していたためである。木村と荻須は戦前から知り合いだったようだが、どういう関係かは不明。現在美術館「えき」KYOTOで「生誕120年記念荻須高徳ーー私のパリ、パリの私ーー」が開催中(10月17日まで)である。見に行こうかなあ。
 最後に昭和14年から20年までの間に詠んだ短歌から1首引用しておこう。

「覇王樹」の二十年記念*1思ほへばわれに空白のながき過去(すぎさり)

*1:『覇王樹』は大正8年5月創刊なので、昭和14年か。