神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

幸田露伴と建築家・発明家の伊藤為吉

 千田是也ら芸術家兄弟の父親で建築家・発明家の伊藤為吉は、幸田露伴と菊池松軒の塾で同窓だった。そのため、露伴の日記に名前が出てくる。

明治44年3月2日 かねて漆山又四郎をして伊藤為吉を問はしめ、我が菊池松軒翁塾にての同窓なりしことを確かめ置きたりしかば、移動家屋の設計を托せむとして、赤城の其の家を訪ふ。折好く居合はせて二十余年ぶりにて対面す。(略)為吉は伊勢の人、我が知りしは同人尾崎行雄食客たりし頃、松軒先生官余帷を下して童蒙に教授せられ、別に月謝なんどいふ定まりも無く、経を説き文を教へ玉はりしを幸として、我も就て学べば彼も就て学びし月日の間の事なりき。当時彼今日のオートモビルの如きものを作り出さんとして、刻苦く精励し、一寒赤身、実に見るかげも無くして、心のみ高く学は貧しき一書生なりき。(略)閑談二時余、辞して帰る。(略)為吉に移動家屋の設計を托したるが、知らず何の日に成るべきやを。 

 村松貞次郎『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』によれば、伊藤は16歳のときに、馬車代用機械車の発明に打ち込んだというので、「オートモビル」とはそのことであろうか。また、村松によれば、伊藤は明治15年上京後、工部大学校に「自由研究生」として機械学を学んだが、この「自由研究生」は工部大学校の学則にはなく、伊藤が勝手に名乗ったらしいという。村松はもぐりの学生というよりは、学生の実習や実験の手伝いを気楽にやっていたのだろうとしているが、露伴の日記によると、工部卿佐々木高行*1を十数回訪問し、「傍聴生」となることを認めてもらったという。伊藤は、その後、上京した父が病気になり、生活の窮乏から切腹自殺をしかけたこともあったらしい。

日記によると、露伴は伊藤に「移動家屋」の設計を頼んでいるが、詳細は不明。伊藤は、明治29年露伴の兄郡司成忠のため千島探検用の組立式防寒家屋を設計提供したことがある。

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国立公文書館では、21日まで「公文書にみる発明のチカラ−明治期の産業技術と発明家たち−」展。無料。

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山口昌男内田魯庵山脈』が岩波現代文庫になる。11月16日上巻発行。下巻に解説が付くのだろうが、誰が書くかしら。

*1:佐々木が工部卿だったのは、明治14年10月〜18年12月。