神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『婦人画報』記者列伝(その8)

生活社を創立した鉄村大二については、既に「daily-sumus」氏が言及している。鉄村が、『婦人画報』の記者であったか、確認できていない*1が、記者列伝の一人としてとりあげてみよう。まず、鉄村の経歴を『昭和人名辞典』(『第十四版大衆人事録 東京篇』(昭和17年10月))で見てみよう。

鐵村大二 生活社(株)社長 赤坂区氷川町一七
本府豊槌二男、明治四十年十二月一日広島市
昭和五年早大独文科卒業、東京社勤務を経て同十二年十月現社創立、同十四年改組
妻花子(明四一)広島県三京為次郎三女、市立広島女学卒
(長女、三女、四女の名・生年は略)

「daily-sumus」氏が生活社の創業を昭和12年と推定していたのは、正しかったということになる。

生活社は、戦時中の企業整備により、山根書店、山と渓谷社、六人社、日本常民文化研究所と統合するが、生活社の名前で存続している*2。戦後の同社については、竹内好が次のような記述*3を残している*4

生活社もそうですよ。こちらは戦犯のリストにあがってるんです。東亜共同体論をかついだし、おまけに社長の鉄村大二が、出版だけでなしにもっと深く軍に関係していた。つまり軍の金をもらっていた。これは去年北海道へいったとき、あのころ編集していた前田広紀という人が北海道に住みついて村長してますが、その人に会って直接たしかめたんです。つまり鉄村は相当なやり手で、軍から名目をつけて金を引き出してるんだね。だから占領軍ににらまれる。それを消すにどうしたらいいかというんで、雑誌『中国文学』に眼をつけた。生活社は自前で『東亜問題』っていう雑誌を出しているんだが、これは占領軍に対する印象がまずい、その印象を消すために、『中国文学』をもういっぺんだすことを考えた。そして変なものを出した。(略)そのうちに、パージがはじまります。そうすると、生活社の出版は自分たちでなくて、こういう人がやったんだということで、前田に責任を全部おっかぶせてしまったんです。

「戦犯のリスト」とは、「公職追放に関する覚書」のいわゆる「G項該当言論報道団体」のことで、生活社は同団体に指定されている。竹内は、前田はいったんパージされたが、前田の編輯長時代の知人の奔走でパージを免れたとしているが、確かに鉄村や前田の名前は、『公職追放に関する覚書該当者名簿』にない。

daily-sumus」氏によると、鉄村は昭和21年に亡くなっているので、竹内は鉄村の言い分を聞くことなしにこの発言をしていることになる。前田側の一方的な主張に依拠したものであり、「daily-sumus」氏による客観的な評価が待たれるところである。

前田の経歴は、『昭和人名辞典Ⅲ』(『日本人事録第六版』昭和38年9月)によると、

前田広紀 初山別村長 山形県東村山郡出身
明治38年3月16日生、昭和4年早大文学部卒。同21年農業従事、同22年4月現職選任、現在に至る。

前田は、昭和46年まで村長を務めたのち、村を離れたという。その後の消息は不明である。

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来月発売の『ユリイカ』6月号の「橋本治特集」に、坪内祐三氏・小谷野敦氏・安藤礼二氏らが執筆するらしい。

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新しい不忍ブックストリートマップをゲット。あとは、誰ぞにめっからないように(笑)、トチゲキするのみ。

*1:『復刻中国文学 別冊』の年譜には、「「婦人画報」編輯者だった鉄村大二」とある。

*2:福島鑄郎編著『戦後雑誌発掘』

*3:「中国と私」『未来』1969年2月号。聞き手:松本昌次。

*4:竹内が武田泰淳らと創立した中国文学研究会の機関誌『中国文学月報』(昭和10年3月創刊)は、60号(15年4月)から『中国文学』に改題・生活社発売、66号(15年11月)から生活社発行となった。18年3月に休刊。戦後の21年3月一部の旧同人により「復刊」されたが、竹内は復刊とは認めなかった。