神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『新・日本文壇史第一巻』における松下長平の後日談への補足

川西政明『新・日本文壇史第一巻 漱石の死』(岩波書店)には、妻俊子の不倫相手北原白秋を姦通罪で告訴した松下長平の後日談が、新知見として書かれている。

父親が出版社を経営していたように、長平もまた大正の終わりから昭和十九年まで日比谷出版社(東京市麹町区有楽町一番地四号)を経営していた。(略)敗戦までの日々、長平は出版業にたずさわっていた記録が残されている。

この記述は、必ずしも正確ではないので、補足しておこう。日比谷出版社の松下の経歴については、『昭和十年版全国書籍商総覧』*1に詳しい。

日比谷出版社/図書マーケツト 松下長平
[店]麹町区有楽町1丁目2 [住]中野区昭和通3丁目18
明治16年4月17日、同町24に信蔵の末子に生まれる
・18歳で独立して官庁への図書、雑誌納入業を営み、国民英学会、大成中学、専修大学等に苦学
日露戦争時陸地測量部の試験に合格、勤務中大本営写真班附を命ぜられ、白川、南両大将の麾下に属し、樺太に出征
・渡米して桑港新世界新聞に入り、また、桑港新聞の創刊に尽力、傍ら東京パツクに寄稿
・帰朝後、グラヒツクを創刊
徳富蘇峰に聘せられ、国民新聞に入社、写真部長兼社会部記者となる。
・帝大病院に半年入院後、国民新聞を退社
数寄屋橋畔に東京スケートリンクを興すが、三年で解散
陸軍省の賛成の下、帝国聯隊史刊行会を興す
大正6年5月、日比谷出版社を創業
・大震災後日比谷タクシーを経営、図書マーケツトも兼営
・著書『叱言長兵衛』(東亜堂)は圧倒的好評を博した

一女公美子(26)は立教高女、櫻井英塾卒。外務省大臣官房に勤務中。

黒岩さんの好きそうな経歴の持ち主であるが、それはともかく、「図書マーケツト」は南陀楼あやしげ。

昭和19年までしか日比谷出版社の記録が残っていないのは、同社がスメル書房や大同出版社とともに、あの櫻井均の櫻井書店に統合(福島鋳郎編著『戦後雑誌発掘』)されたためである。

問題は、戦後の松下である。実は、松下は、戦後も出版社を経営していた。
『出版社・執筆者一覧昭和23年度版』によれば、「東照堂 松下長平 東京都中央区木挽町一ノ九」とある。この記載は、1951年版も同様である。この一覧は、金沢文圃閣から索引付で『戦後初期の出版社と文化人一覧』として復刻されている。文圃閣には、まだ行ったことはないが、いい仕事をしているなあ、とゴマをすっている場合ではなかった。東照堂は、昭和22年に坂本箕山の著書を刊行しているが、この坂本の著作は戦前日比谷出版社からも刊行されているので、東照堂の松下は日比谷出版社の松下と同一人物と見てよいだろう。

松下については、従来生年すら不明*2であったが、川西氏の発見と私の補足によって、詳細な経歴が判明した。残るは没年である。

*1:日本図書センターから『出版文化人名辞典』 として復刻。

*2:川西氏も生年に言及していない。なお、氏は、俊子の夫の松下と日比谷出版社の松下を同一人物とする根拠を示していないが、『昭和十年版全国書籍商総覧』にある松下の経歴、娘の名前は俊子の夫のそれ(渡米経験、国民新聞の写真部、娘公美)と合致する。