久保田文次論文によると、
一九一五年四月七日、波多野は孫文を訪問したが、警察報告は「太陽通信社長波多野春房」と報じている。イギリス駐日大使館のノーマンNormanは日本外務省の松井慶四郎次官に「サン・デーリー・ニュース社Sun Daily Newsの社長」であり、その情報はイギリス大使館にも配信されていると報告している。
とある。この太陽通信社だが、長谷川巳之吉が勤めていた会社と同一のものであろうか。林達夫・ 福田清人・ 布川角左衛門編著『第一書房長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部、昭和59年9月)によると、
筆者(関口)が生前の長谷川巳之吉から直接取材した時の話によると、当時の太陽通信社の社長升巴陸龍は九州の出で、時の閣僚(内相)大浦兼武の側近であったという。社の資金は主としてこの大浦大臣から得ており、(略)その性格は国家主義的色彩が濃厚であった。大浦内相はまもなく収賄罪のため失格[ママ]する。資金源を失った社は『黒潮』発行を断念し、その後は本来の仕事ともいうべき日刊新聞『太陽通信』の発行を細々と続け、余命を保ったとのことである。長谷川はここに雑誌創刊時*1から大正七年一月に辞表を出してやめるまで一年と三か月ばかりいた。
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「でっかいどう」と「するがの国」へ行こうかしら。あっ、その前にお台場で等身大の誰ぞ、じゃなかた、等身大のガンダムに会わねば。
*1:大正5年11月創刊。