場所がはっきりしないが、大正期の神田に田沢画房という喫茶店があった。美作太郎『戦前戦中を歩む 編集者として』によると、大正13年東大法学部に入学後の話として、
今のすずらん通りへつづく九段よりの家並みに、<田沢画房>という喫茶店があった。八坪あるかないかの狭い店内に小さな卓子が三列に並び、その三方の壁から天井にかけて、油絵はもちろん、あらゆる骨董の類が所狭しとぶら下がっており、客のふかす烟草の煙が濛々と立ちこめていた。そして、その店のあるじの娘で舞踏家と噂されていた洋装の美しい少女がいて、飲物やピーナットを運んでくれるのだが、彼女は多くの若い客にとってはまさに「看板娘」であった。
この画廊のような喫茶店だが、名曲喫茶としても知られていたらしい。草野心平*1によると、
中国から帰ってきたばかりの、二十三四歳の頃だったろう。或いは、その翌年だったかもしれない。大晦日の夕方、神田の田沢画房で高村さんと落合うことになった。その頃としては数少いレコード喫茶として、そこは有名なところだった。
「高村さん」は、高村光太郎である。草野が中国から帰ってきたのは、大正14年7月。草野は、「看板娘」よりも名曲の方に関心があったようだ。
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青弓社の『オカルトの惑星』。一柳廣孝氏の執筆あり。ma-tango氏が書いていないのが残念。
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『中央公論』の「さらば東京大学 わが反「禁煙ファシズム」闘争記」にて、猫猫先生の東大講師雇い止めの顛末を読む。
独り身ではないのだから、もう少し丸くなれないものかと思いつつ、猫猫先生らしい振る舞いと思ったりもする。
著作を買うぐらいしか応援できないが、今後とも評論、小説などの分野で多いに活躍してほしいものである。わし、猫猫派だもの。
(参考)「はてなキーワード」では、猫猫先生の肩書きは、「独立学者、国際日本文化研究センター共同研究員」となった。