神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ナウカ社そばの田沢画房

大竹博吉が創立したナウカ。私は、昔のナウカにも今のナウカ・ジャパンにも一度も行ったことがない。さて、『大竹博吉 遺稿と追憶』(大竹会、1961年2月)に、高橋宣彦が「ハッピのおもいで」を昭和9年の話として書いているが、そこに田沢画房が出てくる。

こうして私はナウカ社に採用された。いまのナウカ社とはちがって、規模がいたって小さく、先生、奥さん、塩田氏、陣内君、それに新米の私の五人だけだった。場所は、いまと反対側の救世軍本部の横を入り、右側の、当時の田沢画房という喫茶店(のちにバレリーナになったきれいな娘さんがいた)と、東洋キネマとのあいだで、それこそ九尺二間の小店だった。

田沢画房については、spin-edition氏にも教示されたことがある。

佐藤竜一『黄瀛 その詩と数奇な生涯』(日本地域社会研究所、1994.6.21)によれば、草野心平「黄瀛との今昔」に黄瀛と心平が田沢画房で初めて会ったときの様子を《そして田沢画房にはいった。途端になっていたのがブルーダニューブワルツだった。私はあの旋律のあおりをくって泪がでた》と書いているそうです(p37)。また菊岡久利の逓信省での同僚で詩人の竹内多三郎と《当時神田神保町にあった救世軍本部横の「田澤」画房喫茶店、小石川白山上の南天堂書店へでかけたことがある》(p82)と書かれています。当時は1925年頃。

高橋の記述で、より場所が特定されてきた。

(参考)2009年3月10日2010年10月22日