神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

市河彦太郎とシカゴ


誰ぞが戦前の外交官市河彦太郎の写真をアップしてくれたので、わしもとっておいた市河ネタを投入。
昭和2年3月11日付け林達夫谷川徹三宛書簡に「市河氏に丸善で会ひました。日英商業会話の本棚のところで。シカゴへ行くさうです」とある。最初「市河氏」は、市河三喜かと思ってしまったが、シカゴへ赴任した市河彦太郎のようだ。市河と谷川が一高時代から知り合いだったことは、一昨年8月9日参照。


シカゴ領事となった市河と西村アヤは出会うことになる。上坂冬子『愛と反逆の娘たち』に、

さて、ちょうどアヤがアメリカで一息ついた頃、英国駐在中の書記官松平恒雄の長女節子嬢を、ワシントン滞在中の秩父宮が見染めて婚約が成立した。(略)アヤは報知新聞社から節子嬢のインタビューを依頼された。(略)/(略)西村家と昵懇のシカゴ領事・市川[ママ]彦太郎の伝手でアヤはミシガン湖畔のドレイクホテルに節子嬢をたずね、心ゆくまでインタビューを行なった。


西村伊作の長女アヤは昭和3年3月渡米。なお、市河はのちに伊作の保釈に尽力している。伊作の『我に益あり・西村伊作自伝』によると、

保釈は願ったけれどもなかなか許されない。病気がひどくて拘禁に堪えられないような場合でないと保釈しないということであった。私の子供たちはそのことについて弁護士や、内務省の外交官をしていたI氏といって長女アヤがアメリカに行ったときにシカゴで領事をしていて世話になり、その後私の娘たちが懇意にしていた人に頼んだ。I氏は裁判所へ行って私が病気であること、それは大動脈瘤といって心臓から出る大きな動脈が腫れる病気であると言って、それを理由に保釈を願った。I氏の妹は私の学校にいたことがある。I氏が熱心に身許を引受けるといったものだから、とうとう保釈を許されて私は拘置所を出ることができた。


という。市河は「daily-sumus」にも出てきていた。→「http://www.geocities.jp/sumus_co/daily-sumus0508.html

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どうも「高窪喜八郎」でのアクセスが多いと思ったら、孫が故高窪統教授だった・・・