神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

国民精神文化研究所の所長以上に恐れられた藤澤親雄


以前書いたのだけど、『反体制エスペラント運動史 新版』(三省堂、1987年7月)に「この『我等』の第三号、つまり一九一九年三月号に「エスペラントの沿革」を書いたのが、なんと藤沢親雄、戦争中に国民精神文化研究所なるものを主宰し、「国民精神の作興」に努め、起訴猶予になった「赤い」学生の再教育に当ったひとで、エスペラント界では雄弁家として聞こえ、日本小史の著作もある」とある。この記述を真に受けて、『近代日本社会運動史人物大事典』では、藤澤を国民精神文化研究所長としてしまっている。


おそらく、これらを参考としたため、後藤乾一『国際主義の系譜−大島正徳と日本の近代−』(早稲田大学出版部、2005年3月)も「国民精神文化研究所を主宰していた藤澤親雄」としている。


書物奉行氏も言うように「〜でない」ことの証明は難しいが、国民精神文化研究所の所長については、『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』に歴代所長の氏名・任期が記されていて、藤澤の名は見当たらない*1


もっとも、藤澤が所長以上に偉そうにしていたとか、研究所では指導的立場にあったという意味であれば、それは正しいのであろう。ある日記によると、彼は鈴木庫三並に恐れられていたようだ。


中島健蔵『回想の文学③』(平凡社、昭和52年9月)によると、

昭和12年12月29日 否、チェカ*2はすでにいる。それは、文部省の国民精神文化研究所藤沢親雄の一派だ。(註・抹消、復元。)彼らが、文化はもちろんのこと風俗にいたるまで、執念深く告発をつづけていることが明らかになった。
 要するにコミンテルンとか「人民戦線」とかが敵らしいが、そういうものと縁を結びそうなのは、知識階級とジャーナリストで、それに監視の眼を集中しているという。


また、『矢部貞治日記 銀杏の巻』(読売新聞社、昭和49年5月)には、

昭和13年10月25日 東大文化科学研究会なるものが「学生生活」といふ雑誌を送って来た。中を見ると例の小田村寅二郎、高木尚一、今井善四郎等の一派で、中河与一藤沢親雄、杉[ママ]本徳明などゝいふ札付きの連中が支持してゐる。こんな雑誌で又教授の学説をとやかく批評し、講義や講演を一々問題にするつもりであらう。うるさいことだ。


昭和14年5月16日 平野義太郎氏が来て「ドイツ新国家体系」の訳者につき藤沢親雄が文句を言ひ、ドイツ大使にまで文句を、訳者の顔振れに異論を述べたので、少し色々と延引してゐるといふ話しであった。国民精神文化研究所で、井上孚磨とか藤沢とか、いふ連中が、就中横田、宮沢など(平野さんの話では僕のことは問題になってゐない由)につき異論を言ふのださうで、そのため大串も何か分担につき不平を以て辞わり、ケルロイターまでが名誉顧問をやめるとか何とか言ってゐるらしい。相も変らず馬鹿げた気狂ひどもだ。


とある。


戦後の藤澤については、もはやトンデモ系ではないと思っていたが、青桃氏の教示によると、まだトンデモの要素がありそう。そう言えば、佐藤栄作の戦後の日記にも藤澤が登場していた。


佐藤榮作日記』第1巻(朝日新聞社、1998年11月)によると、

昭和31年7月22日 藤沢親雄氏、第三文化協会の件で話込む。大原氏へ紹介を書く。


佐藤の人脈から言うと、「大原氏」は大原総一郎かと思われる。第三文化協会って何なのだろう。


追記:NDL-OPACによると、今成覚禅『世界平和と民族信仰』(第三文化協会本部、1950年)というのがあるが、関係は不明。

*1:藤澤自身も昭和18年7月26日の座談会(「偽史を攘ふ−太古文献論争−」)で「当時国民精神文化研究所が出来て、伊東延吉氏が上に坐つた。(略)それで伊東氏に頼んで−文部省あたりは僕のやうな経歴を嫌ふから、嘱託にして貰つた。(略)それで嘱託にして貰つて今日までゐるのです」と発言している。もっとも、藤澤が政治学研究嘱託となった設立当初の昭和7年8月当時の所長は粟屋謙。伊東は当時、文部省学生部長。伊東は、その後、昭和16年6月から18年11月まで所長となり、引き続き同所の後身、教学練成所の所長を亡くなる19年2月まで務める

*2:秘密警察のこと。