神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

内田魯庵の文壇裏話


例によって三村竹清の日記(『演劇研究』第19号、平成8年3月)によると、三村が林若樹から聞いた内田の文壇裏話として、

大正5年4月22日 夜 林氏来 筍と種いもを貰ふ 内田魯庵きての話に 此節秋声[ママ]のかきし小説に 或未亡人か情人なる法学士へ泊りて 其帰りに 或女を訪ひて けふは御嫁にゆくのたといひたる話あり これは三木竹二の未亡人 森真如女史の事にて 建部遯吾へ片付く時の話也 或女とハ岡田八千代也 此も間もなく離縁になりし也 此外 佐藤紅緑佐久間象山と同し様なる精力家にて とても娘なとハあれのそはへハよせられぬといふ事 いや此方面の文士の裏面を大分話してゆかれたり 記して置いたら妙なるへしなとゝ語らる(略)十一時に帰去


冒頭の「小説」は、近松秋江「再婚」(『中央公論大正4年8月号)のこと。森まゆみ『鴎外の坂』(新潮文庫、平成12年7月)によると、この作品に鴎外は激怒して、反駁のために「本家分家」を書いたが、未発表のまま亡くなり、昭和12年の鴎外全集第3巻で初めて公けにされたという*1
また、「三木竹二の業績の一つは、女性の劇作家を育てたことである。その一人が妻久子で、白井真如女史の名で劇評に合評に健筆をふるったが、それにつづき、小山内薫の妹八千代が芹影女史の名で筆をとることになった」という。八千代は、鴎外の勧めで明治39年洋画家岡田三郎助と結婚するが、後に破綻した*2という。


近松にモデルにされた久子は、明治41年1月に夫三木竹二こと、森篤次郎(鴎外の弟)を亡くし、明治44年6月建部と再婚するも数ヶ月で離婚。『再婚』では、建部に嫁ぐ前の晩、情人の法学士・弁護士「三輪」に築地の待合で別れ話を持ち出したが、結局、「二人で牛乳を一升と生卵を三十も飲んで」夜明したという。牛乳と生卵で一晩別れ話をするということにとても、違和感があるが、当時はそういうものだったのか。この三輪にモデルがいるのかは不明。
また、紅緑の方の話については、コメントするネタを持たず。でも、文士に限らず、男は皆そうなのじゃないの、という気はする。


追記:『近代文学研究叢書』第66巻によれば、佐藤は明治30年はると結婚。大正5年4月女優横田シナ(三笠万里子と改名)を「虎公」の主人公に抜擢。東京の西五軒町に万里子と居を定め、5年の秋には万里子のために「日本座」を結成。福士幸次郎を間にたて、はるとの離婚話を進めたが、こじれていったという。はるとの離婚は大正10年6月成立、翌11年12月に万里子と正式に結婚。佐藤愛子『「血脈と」私』(文藝春秋、2005年1月)中の「『血脈』関連年表」によれば、万里子は明治26年12月生まれ。

*1:この事実を発見したのは、成瀬正勝「鴎外を怒らせた近松秋江の作品」(『鴎外』第5号、昭和44年5月、森鴎外記念会)

*2:明治39年12月に結婚。その後、別居するも、三郎助が昭和14年9月に没するまで離婚はしなかった。明治39年12月31日付け読売新聞に「本日を以て華燭の式を挙げ」とある。