神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男と仲木貞一の接触


大塚英志氏は、雑誌『怪』での連載などで、藤澤親雄、増田正雄ら偽史運動の関係者と柳田國男接触を紹介している。もっとも、藤澤が柳田と接触した時点では、まだ藤澤はトンデモ色(て、どんな色だろう)に染まっていなかったが、そういうのも柳田と偽史運動の関係者との接触に含めてよいのであれば、柳田と仲木貞一との接触も挙げるべきであろう。


柳田らによって昭和2年発足した民俗藝術の会が発行した『民俗藝術』創刊号(昭和3年1月発行)所収の「民俗藝術の会の記」によると、


昭和2年7月8日 第1回茶話会をひらいて会の方針を打合わせ。出席者は柳田國男今和次郎早川孝太郎金田一京助、日高只一、町田博三、藤澤衛彦、小寺融吉ら


7月14日から3日間 東京放送局では盆踊の戸外放送を行なった。会員町田博三、仲木貞一両氏は放送局に関係していたため、特に便宜を計り、多くの会員は連夜放送の実況を参観した。


9月9日 第1回談話会。出席者は野口雨情、中山晋平早川孝太郎、北野博美、柳田國男、小寺融吉ら


10月15日 第2回談話会。出席者は中山晋平、町田博三、柳田國男折口信夫早川孝太郎、中村吉蔵、日高只一、北野博美、永田衡吉、小寺融吉ら


11月12日 第3回談話会。折口、柳田、山崎[楽堂]、金田一、北野、早川、仲木、上森、西角井[正慶]、永田、小寺


また、仲木は『民俗藝術』第2号(昭和3年2月発行)に「撮影機の利用について」を執筆している。



藤澤については、いずれ大塚先生が詳細な年譜を作ってくれるかもしれないが、仲木についても誰か、詳細な年譜か伝記を書いてくれないかしら。


『石川県大百科事典』(北国新聞社、平成5年8月)には、仲木についてやや詳しい記述がある。それによると、仲木貞一(なかきていいち)の父之稙(ゆきたね)は金沢7連隊長。貞一は、山口県立徳山中学から早大英文科卒。明治43年萬朝報の懸賞に応じ、戯曲「世の終り」が1等当選。読売新聞社のかたわら秋田雨雀らと「劇と詩」創刊、劇作家を志す。大正9年松竹撮影所映画監督、同12年日大講師となる演劇・映画論を講ずる一方、文部省社会教育調査委員を務めた。昭和2年東京中央放送局に入り社会教育課長となる。長男繁夫も映画監督で、東宝雪村いずみ主演「あんみつ姫」等のメロドラマの鬼才として知られる。


この事典の記載には遺族の仲木都富氏*1が資料提供しているから、従来の事典では知られていない内容の記述があるね。しかも、これによると、仲木は、「なかぎ」ではなく、「なかき」が正しいようだ。


劇作家にして、映画監督でもあり、柳田の民俗藝術の会にも関与した仲木だが、その後、トンデモ世界の住民となり、藤澤や増田らとともに、特高に監視されていたと思われる。『特高月報』昭和18年4月分の「運動日誌」によれば、

昭和18年3月27日 神代文化研究所に在りては東京市銀座七丁目日本貿易協会内に於て海外古代文献研究会を開催せるが、藤澤親雄より契丹古伝の研究に就いてと題する講演を聴取散会せり。


昭和18年4月17日 国際政経学会に在りては東京市大平町野村ビル内永倶楽部に於て猶太問題研究会を開催、長谷川泰蔵(ママ)、増田正雄の講演を聴取せるが出席者は赤池濃、山本英輔以下約三〇〇名。


昭和18年4月28日 神代文化研究所に在りては東京市京橋区銀座日本貿易協会に於て海外古代文献研究会を開催、小寺小次郎以下二十五名出席仲木貞一、宮崎小八郎の講演を聴取せり。


とある。


追記:新刊の『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(朝日文庫)の文庫版のあとがきによると、大塚氏は網膜剥離を患い、手術を受け、視力がまだ充分に回復していないとのこと。早期に回復され、精力的な文筆活動に復帰できるよう祈っております。

*1:貞一の四男。「鱒書房から集英社と四十年あまり編集者生活をおくった」という。