「書物蔵」の再開を祝して、「宮本常一と××本」なる面白ネタを投入しようかと思ったけど、宮本ファンの顰蹙を買いそうなので、やめておいて、谷崎ネタにしよう。
谷崎精二『明治の日本橋・潤一郎の手紙』(新樹社、昭和42年3月)によると、
坪内先生で思い出したが、「刺青」が出版されたのはたしか明治四十五年で、その頃早稲田の学生だった私は毎週一回坪内先生のお宅へ伺って「バアナアド・ショウ」の講義を聞いた。これは特殊研究という学課で、特志の学生だけが選んで聞ける制度になっており、始めは学校の教室で聞いていたのだが、学生の数が少ないので(たった四人だった。)坪内先生が「私の家でやることにしよう。お茶位あげますよ。」と気軽に云い出され、途中から先生の大久保のお宅へ揃って伺うことになった。
という。この坪内逍遥宅の集まりで、精二は兄潤一郎の『刺青』(明治44年12月発行)を見つけるが、その後、精二が『早稲田文学』に書いた潤一郎充ての公開状(大正2年4月発行の同誌所収の「谷崎潤一郎氏に呈する書」)を坪内が見たらしく、「谷崎君は潤一郎君の弟さんなんですね」と言われ、気が付くと、本箱の中にあった『刺青』が見えなくなっていたという。
このエピソードは、年譜上は、一見、明治45年、大正2年のどちらに入れても、よさそうに思われるが、はたしてそうだろうか。
幸い、当事者の一人である坪内逍遥の日記は公刊されている(『坪内逍遥研究資料』第15集、新樹社、1997年8月)。
大正2年2月7日 此日よりシヨーの特殊研究を宅にて聞く 広津和郎以下四名
大正2年3月14日 午後特殊研究 谷崎 ShawのChesterton
大正2年3月28日 午後シヨー特殊研究 峯岸と広津だけ、結婚論
大正2年5月9日 シヨー特殊研究を結了にする
これによれば、バーナード・ショーの特殊研究は大正2年2月に始まり、同年5月に終了したということだね。
だから、精二が『刺青』を発見した日や、『刺青』が隠されたことに気づいた日までは特定できないけれども、谷崎潤一郎の年譜に『刺青』をめぐるエピソードを入れるとしたら、大正2年が正しいということになる。
ところで、坪内邸に集まった4人のうち、精二、広津和郎、峯岸幸作の3名は判明したことになるが、もう一人はだれだろうね。もっとも、こんなことを気にしていたら、ヨコジュン(横田順彌氏)みたいに泥沼に陥ってしまうので、追求はやめておこう。本当は、当事者でない人の日記等で面白い記述を見つける方がいいのだが、今回は当事者その人の日記になってしまった。
小谷野敦先生は見てくれたかしら・・・