谷崎と佐藤の間での、谷崎の妻千代をめぐって起きた「小田原事件」とか、「細君譲渡事件」というのは、谷崎を語る場合、重要なエピソードみたいだけど、私自身はあまり興味が持てない。それでも、一つ気がついたことがあるので、記録しておこう。
小谷野敦版谷崎潤一郎詳細年譜によると、大正9年11月の項に、
千代が惜しくなった谷崎は前言を翻し、同月下旬から12月始めにかけての三者の話し合いで、譲渡はなしになり、佐藤は怒って決裂、しかし佐藤は東京へは戻らず、澤田のいた小田原の養生館に青木貞吉の変名で入居、澤田と翻訳の仕事をする。
さて、谷崎の研究者は、気づいているであろうか。この時期に谷崎の所在が明確な日がある。大正9年11月23日に行われた田山花袋、徳田秋聲の生誕五十年を祝う行事は、講演会*1は有楽座、祝賀会は築地精養軒で開催されたが、そこに谷崎が出席している。他の出席者としては、芥川龍之介、谷崎精二、里見紝、広津和郎、葛西善蔵、菊池寛、藤森成吉、上司小剣、木下杢太郎、加能作次郎、江口渙などの名前の他に、何と佐藤春夫の名前も見える*2。
もちろん、これによりこの日に三者(谷崎、千代、佐藤)の話し合いがあったというつもりはない。
少なくとも、この日、谷崎や佐藤の頭の中には、田山・徳田の生誕50年なんてことは全く存在していなかったであろうことは想像に難くない。
小谷野氏が惜しげもなく公開している年譜に、各種の文献からの情報が集積されれば、色んなことが見えてくるであろう。私も微力ながら協力しませう。