神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

八木敏夫と関根康喜(関根喜太郎)


「書物展望」15巻2号(昭和23年10月)の「新富町たより」に、斎藤昌三は次のように記していた。


五月十四日は再三辞退したが河西君の斡旋と、土岐善麿、小島烏水二老の主催で、小生の還暦小宴が催され誠に光栄だった。当日の参会者は宮武八十二翁を初め、土岐善麿、飯田美稲、八木敏夫、(中略)石塚友二、(中略)関根康喜(中略)等の三十氏であつた。


土岐善麿は、後の日比谷図書館長らし。また、石塚友二は、書物展望社の元編集者で俳人・小説家。5月27日に言及した、柴田宵曲の「柴田宵曲翁日録抄」に出てくる「石塚氏」と思われる(どうやら石塚左玄とは無関係だったみたい)。
八木敏夫氏については、今更言うまでもないだろう。
関根のことを知っている人間が健在だとすれば、今となっては八木氏くらいだろうか・・・
八木氏が、もし、関根のことを御記憶であれば、ぜひ、「日本古書通信」で書いてもらいたいものだ。
(追記:八木氏は、平成11年に逝去されていた。がーん。もはや、関根のことを語れる人はいないか? NDL−OPACに生没年(明治41年12月生、平成11年11月没)を入れておいて)


ちなみに、戦前「成史書院」などを経営した関根は、戦後も、櫻澤如一の著書を盛んに出版した「東京PUC」や、民俗学者後藤興善の著書を出版した「火星社」を経営していた。更には、『虚無思想研究(1)〜(4)』や斎藤昌三の『東亜軟書考』などを刊行した「星光書院」もおそらくは関根の経営であろう。
いずれにしても、彼の足跡は昭和26年までしかたどれない。自死したとも言われるが、戦前、アナキストから国家主義者に転向していたと思われる関根には、戦後の出版界では生き延びることはできなかったのだろうか。