神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

関根喜太郎の幻


宮澤賢治春と修羅』(関根書店、大正13年4月)の発行人である関根喜太郎については、その生涯がかなり判明してきたところである。これまでに次のような研究がなされている。


  『日本アナキズム運動人名事典』の「荒川畔村」の項(大月健氏執筆)
  小田光雄氏の論考
  「書物蔵」→「http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/searchdiary?of=4&word=%b4%d8%ba%ac%b4%ee%c2%c0%cf%ba
  わすのブログ→「http://d.hatena.ne.jp/jyunku/searchdiary?of=7&word=%b4%d8%ba%ac%b9%af%b4%ee


これ以上の研究の進展は、遺族による証言・新資料の提供がなければ期待できないと思われる。ところで、関根について、次のような資料を発見した*1。伏字が多いが、逆に謎解きの楽しみがある。


『新社会評論』7巻4号(大正9年6月1日)所収の埼玉県平民関根喜太郎「健康の悲哀」によると、

自分の家庭は父が二回、三回の×××××ありしがゆえに如何に苦労したか。兄が××××中であるゆえに如何に現に苦しめられてゐるか。自分は×××と云ふ、年月の生活の保証せられたるゆえに、永き将来の道程を闇黒にさせられた。(略)/自分は自分の体に少しでも・・・・あれば却つて幸福であつたかも知れない。自分は人並みの体を持つて居るがゆえに、自分の将来を闇黒にさせられたのだ。(略)/(一九二〇、五、五)


軍隊の批判をしているようにも読めるが、よくわからない。それと関根と埼玉県の関係を示す文献は初めて見た。なお、前掲事典によると、関根は大正7年新しき村に参加、やがて同村の運動では社会革命は不可能と判断し、堺利彦の『新社会』や土岐哀果の『生活と芸術』などに短歌を投稿し、接触を図ったという。また、大正9年には日本社会主義同盟に参加、その名簿が押収され警察に呼び出され閉口したらしい。


『新社会評論』は堺が主筆・編輯を務めた雑誌でもある。後に国家主義者になったと思われる関根なので、堺と交流した期間は短いと思われるが、黒岩さんの研究の過程で関根は出てこないだろうか。


追記:10月15日に補足を記載した。

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ユリイカに連載されていた中村稔の「私の昭和史・戦後篇」が青土社から上下2冊で出ていた。「らんぼお」の話も出てくる。

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一柳廣孝編著『オカルトの帝国 1970年代の日本を読む』(青弓社、2006年11月)に、某氏が三浦関造竹内文献の関係について書いていた。


11月8日にはブログ開設3周年記念。50万件に達しているかすら。

*1:ただし、同一人物という確証はない。