神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その4)


黒岩さんに言われて、今更ながら登場人物が多すぎることに気づいた。名前を出したのに、ネタに使うのを忘れてしまうのであった。


(その1)に登場した久邇宮朝融王殿下は、2月21日に言及したけれど、平凡社創設者下中彌三郎と色々行動を共にした人。櫻澤とも深いつながりがあったのだね。


また、櫻澤を単純に反ユダヤ主義者だったと決め付けてはいけないだろう。彼自身も、『食物による健康と幸福』中に「私自身個人的には、ユダヤ人に対しては友情を有つて居りますけれどもにくしみはちつとも有つて居りませぬ。」と記している。


若宮卯之助という人物も、反ユダヤ主義者とだけで記憶すべき人物ではない。
皇漢医学者中山忠直の『日本人に適する衣食住』(昭和12年11月)は、若宮卯之助に捧げられた書であるし、あの森銑三も「若宮氏の著書」(著作集続編第11集中「大正の新聞から」)で、

その「天無口」は、この頃確か『中央新聞』に出てゐたのだらうか。私もこの若宮氏の文の愛読者であり、若宮氏の著書を出来るだけ集めたいと思つてゐるのであるが、それが出来ない。かやうな特殊の人の著書に関心を持つ古本屋さんの注意を願つて置かう。」


と記している。もちろん、森が言っているのはユダヤ論の本ではなかろう。若宮卯之助の著書も「買い」か!?


柴田宵曲の「柴田宵曲翁日録抄」(「日本古書通信」昭和59年5月号)中、昭和17年11月15日の条には「午後大竹貫一氏を旅館に訪ふ。石塚氏座に在り。」と、12月23日の条には「午前田村町に食養会をたづぬるに已に移転して無しといふ。大竹翁のゴム印ちがひならむと思ひ茅場町を訪ふ。在宿。談話筆記。金一封を贈らる。」とある。


食養会については、『食生活の革命児 桜沢如一の思想と生涯』(松本一朗著)によれば、昭和12年夏、櫻澤如一が私財を投じて田村町四丁目の会館へ移り、また、昭和14年10月理事会は櫻澤の追放を決定したが、彼の去った食養会は一年ともたず、新しい理事たちは、会館を売り飛ばしてしまったとある。


柴田が田村町を訪ねた時点の食養会が、どのような状態であったか知らないが、名前の出てくる石塚氏は、まさか石塚左玄ゆかりの人ではないかと、考えると眠れなくなっちゃう!