神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その1)


2月3日に紹介した太古文献論争(昭和18年7月)で、島田春雄につるし上げをくらった戦前の竹内文献の信奉者として著名な藤澤親雄。座談会では、次のようなやりとりがあった。



島田 エスペラントはやめて下さいよ。


藤澤 すつかりやめちやつた。


島田 私は学生時代に、芳賀矢一先生から「エスペラントはいけない。あれはユダヤの本部が使ふもので、これをやると便利だけれども国家意識を捨てるやうになる」といはれたことが私は非常に頭に残つてゐる。ところが藤澤さんはエスペラントの神様だといふことは・・・・


藤澤 それはエスペラントがうんと出来たから、客観的にさうなつたので・・・(中略)今ではちつとも関係してゐない。エスペランチストも非常に僕を煙たがつてゐる。(中略)現在では第一僕のインテリの仲間では、僕を叛逆者といつてゐるのですよ。


島田 踏み潰したらいい。さういう奴を・・・



島田先生も凄いことを言うね。「踏み潰したらいい」とは!
さて、時計の針を戻して、エスペラントの神様藤澤がどのようにして、エスペラントと出会ったのかを見てみよう。エスペランチストとしての藤澤をめぐる人々にも面白い人物が登場するのだよ。


時代は、大正8年に遡る。
初芝武美『日本エスペラント運動史』によると、

1919年(大正8年)2月、運動の盛り上がりに応じ、協会は普及運動を活発化するため幹事2名を増員、藤沢親雄、平野長克を新たに幹事に加えて組織の強化を図った。藤沢親雄(1893〜1962)は、当時、農商務省の役人で、前年の日本大会に偶然出席してエスペラントを知り、学習書を購入して翌々日の懇親会には外国人とエスペラントでしゃべっていたというほどの語学の達人であった。東大法科在学中から、すでに数カ国語を自由にしゃべり、後年、ジュネーブ国際連盟事務局に入り、国際分野で活躍した。


官僚だったときから、エスペラント運動に関与していたんだ。この大正8年には、藤澤は雑誌への寄稿も行っている。
大島義夫、宮本正男『反体制エスペラント運動史(新版)』によると、

大山[郁夫]を発行名義人とする『我等』の編集にあたったのは、エスペランチストの福岡誠一[戦後、「リーダーズ・ダイジェスト日本版編集長]であった。(中略)
この『我等』の第三号、つまり1919年3月号に「エスペラントの沿革」を書いたのが、なんと藤沢親雄、戦争中に国民精神文化研究所なるものを主宰し、「国民運動の作興」に努め、起訴猶予になった「赤い」学生の再教育に当たったひとで、エスペラント界では雄弁家として聞こえ、日本小史の著作もある。三十年の歳月はいかにも無情なものである。当時の藤沢は、森戸辰男と同じように、保守でも反動でもなく、それが「民主主義」でないという意味において、「民本主義」の使徒であった。(中略)
同じ藤沢が「ウラジオまで」という興味あるルポを『我等』の1919年12月号に書いている。白軍占領下のウラジオストックに旅行して、その地のエスペラント会をたずね、さらにエスペラント研究グループのある捕虜収容所を訪問し、オーストリアハンガリーの捕虜エスペランチストと交歓する話である。


3月4日に言及したとおり、この大正8年には、老壮会例会(10月16日)で藤澤はエスペラントについて講演しているから、この頃からエスペラントに、どっぷりとはまっていたみたいだ。


それと、この年にウラジオにいたのであれば、シベリア出兵に通訳として従軍していた小谷部全一郎酒井勝軍接触していた可能性があるが、そうだったらますますおもしろいなあ(といっても、調べようがないか・・・)。


藤澤については、知れば知るほどおもしろい人物。ヨコジュンさんか、長山さんが評伝を書いてくれないかしら・・・


追記:あまりブログを楽しめなくなってきたので、「当分の間」閉鎖したい。


はてな」にお招きいただいた方には、すみません。
南陀楼さん、黒岩さん、セドローさん(出久根達郎『本を旅する』中「偽書」に登場していた)に、コメントをいただいただけで、十分幸せだったと思っております。
さいなら。