神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その2)

前回、藤澤は官僚時代にエスペラントに出会ったと書いたが、学生時代(大正6年7月東京帝国大学法科大学法律学科卒)から出会っていたことが判明した。


すなわち、「我等」(大正8年9月号)中の「エスペラント練習の経験」(藤澤親雄)によると、

自分が国際補助語エスペラントをやりだしたのは今から2年前即大正6年の5月あたりからである。
恰度其年の確か4月の或夕、神田の和強楽堂でエスペラント語普及講演会があることを新聞で知つて何の気なしに聴きに出掛けた。(中略)何でも黒板[勝美]博士、中村[精男?]博士、高楠[順次郎]博士、小阪[ママ。小坂狷二]先生などがエスペラントのことを種々の方面から熱心に説明せられ且宣伝せられた。(中略)
自分は其夜早速会場で千布[利雄]先生の著はされた「エスペラント全梯」と「エスペラント和訳辞典」とを購入して来て直ぐ学習し始めた。先ず全梯で文法の大綱を捕へることに骨折つた。しかし例題などは出来る限り簡単に済まして仕舞つた。で之を頭を容れるに一週間ばかりかゝつた。


『日本エスペラント運動史』で「翌々日の懇親会には外国人とエスペラントでしゃべっていたという」のと、本人が語る実際の藤澤のエスペラント習熟度とは、少しギャップがあるようだ。


 さて、藤澤のエスペラントとの出会いが1、2年食い違っていてもどうでもいいことではあるのだが、北一輝エスペラントの関係を巡って、藤澤が登場する中で、その時期が関係してくる。


『反体制エスペラント運動史 (新版)』によると、

そこで考えたいことは、北とエスペラントとの結びつきがどの時点で起こったのであろうか、ということである。伊東三郎は、「大川(周明)氏は同じ(東亜経済)調査局にいた藤澤親雄エスペランチストなることを知り、一夕知友を介して藤沢氏を聘(へい)し、エスペラントの話を聞いた。この集りに何(が)(盛三)氏もいた。これが後年同氏が熱心なエスペランチストとなり後藤(新平)氏らをもひきつけるにいたった端緒だ。同じくこの席上に北一輝氏もいた。これがその後同氏の『日本改造法案』にエスペラント採用が書かれるにいたった因縁だ」と書いているが、これをそのままウノミにはできない。第一話そのものがまた聞きなので、伊東の名著『日本エスペラント学事始』の中の多くのデータのように、まちがっている公算が大きい。わたしの推定をのべると、やはり、堺利彦大杉栄らと北との交友関係と社会主義の中にその源泉を求めるべきであると思う。

藤澤と北一輝が関係があったとは、ゾクゾクするなあ。
でも、藤澤がエスペラントに出会った、大正6年から、北が「日本改造法案大綱」の原案を書いた大正8年12月まで、北は上海にいたから、ちょっとつじつまが合わない。
北と藤澤をめぐる一つの伝説と考えておこう(藤澤が満鉄東亜経済調査局に入社したのは、大正8年9月、北が『日本改造法案大綱』の原案を書いたのは大正8年8月。伊東の話は、それだけで無理があるのだが、満鉄云々を無視して、藤澤がエスペラントに出会った大正6年にまで広げても、北が上海に渡ったのが大正5年6月のため、いずれにしても矛盾する。ただし、『日本改造法案大綱』の「エスペラント採用」部分が大正8年8月の原案作成以降に書かれた可能性はゼロではない)。


*再開したが、あちらでだれぞ向きのネタに専念してもらった方がいいという話もあるか?