神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

財団法人佐藤新興生活館生活図書館旧蔵の仏教社会学院編『新興類似宗教批判』

東京古書会館の何展で買ったか不明だが、水平書館の千円の値札が残っている。大東出版社から昭和11年2月発行。
目次は、

新興宗教批判 椎尾弁匡
邪教は何故繁盛するか 高島米峰
擬似宗教は人心を□毒す 加藤咄堂
謂る邪教の教学的批判 石津照璽
精神病学から見た邪教迷信 諸岡存
医学上から見た邪教迷信 近藤乾郎
医療の社会化と邪教迷信 黒田教慧
類似宗教と疾病治療 高山峡
医事政策上から観た邪療 松葉直三郎
宗教教育と邪教迷信打破 大村桂巌
淫祠邪教の国法的観察 伊藤道学
新興類似宗教の一批判 浅野研真

1頁に「財団法人佐藤新興生活館生活図書館印」、奥付に「財団法人佐藤新興生活館生活図書館/昭和11.3.13/第 号」の印が押されている。佐藤新興生活館については、松田忍『雑誌『生活』の六〇年ーー佐藤新興生活館から日本生活協会へーー』(昭和女子大学近代文化研究所、平成27年3月)に詳しいので、引用すると、

一九三五年三月一日、佐藤慶太郎の出資のもと、山下信義、岸田軒造を中心として佐藤新興生活館が創立され、同年一〇月八日に財団法人となった。当初仮事務所が丸ビル内に設けられたが、間もなく佐藤新興生活館は(略)神田区駿河台一ノ一の土地に着工、一九三七年一〇月三〇日落成した。すなわち、のちに山の上ホテルとなる建物であり(略)

本書が購入された昭和11年3月は財団法人佐藤新興生活館はまだ丸ビル内の仮事務所にあった時である。生活図書館については松田氏の書では言及されておらず、同財団が昭和10年10月に創刊した『新興生活』(昭和13年4月『生活』に改題)を見る必要があると思われる。

昭和図書館の古書展に通う住谷悦治と絲屋寿雄

誰ぞと昭和図書館の噂をしてたらキター\(^o^)/
臨川書店のバーゲンで100円だった『春風秋雨ーー住谷(桔梗)よし江の八十六歳誕生日にーー』(住谷悦治、昭和51年11月)の絲屋寿雄「万歳(まんざい)ーー京都へ来られたころーー」に出てきたのだ。

今から四十年ばかりむかし、私は上賀茂の萩が垣内町に住んでいたが、よく宮崎町の先生のお宅に上った。そのころ河原町御池のあたりに古書籍商組合の会館があり、その二階で毎月、古書展がひらかれた。明治の社会主義文献や自由民権の古典に興味をもっていた私は欠かさず出かけたものだが、その都度住谷先生をお誘いした。

これは、「京都書籍雑誌商組合立昭和図書館」や「『日本古書通信』創刊号(日本古書通信社、昭和9年1月)」で紹介した京都書籍雑誌商組合立の昭和図書館のことだろう。絲屋によると、住谷(すみや)が古本市に行くと所持金すべてを古本代に使ってしまう(^_^;)ので、妻よし江は「持っているお金でみんな本を買ってしまうから、これだけしかもたしてやらない」と、坊やにお小遣いをもたしてやる母親のような感じで言っていたという。
年譜によると、よし江の略歴は、

明治23年 宮城県宮城郡松島村生まれ
大正2年3月 宮城県立女子師範学校卒業
10年 仙台第二高等学校時代の友人堀真琴を介して、住谷を知る。
11年5月 住谷と結婚
昭和8年7月9日 住谷、検挙
同年8月 住谷、同志社大学退職
9年 住谷、『文春』『京都新聞』の欧州特派員として渡欧
10年4月 住谷、シベリア鉄道で帰国。一家は京都下鴨宮崎町の借家へ移る。
12年4月 住谷、松山高等商業学校就職
24年7月 住谷、同志社大学教授に復帰
38年11月 住谷、同志社大学総長就任

なお、本書には住谷の弟磐根の「萬緑叢中紅一点」や同じく弟の完爾の「よし江姉と枇杷の思い出」なども収録されている。
昭和図書館ならぬ平成の京都古書会館では毎年一回古書展が開催されるだけである。毎月とは言わないがもう少し増やしてほしいものである。

国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後

戦時下のユダヤ研究会と丸山敏雄の日記」で紹介したユダヤ研究会と丸山の関係は、昭和19年から始まっている。『丸山敏雄全集』17巻(倫理研究所、昭和54年5月)に次のようにある。

(昭和十九年)
五月六日(土)猶太研究会
(略)
午後一時より読売五階講堂にて山崎、四王天、増田三氏のユダヤ問題研究発表あり。大変よい。はじめてこんなしんけんな会に出た。思想問題のもと也。日比谷公園にて夕食。(略)

四王天」は国際政経学会会長の四王天延孝。「山崎」は昭和18年11月に同学会から『ユダヤ問題を中心とせる思想国防』を刊行した山崎能達だろうか。
同学会常務理事の増田正雄は戦後公職追放。戦後の増田については、三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(日猶関係研究会、昭和28年8月)に、

(略)増田氏はとうとう追放になつた。このために今では、大阪宝塚附近の自宅も売り、東京麻布東町の宅は戦災を免れたがこれもどうやら人手に渡つたらしく、あの沢山の貴重なユダヤ文献も一部を国会図書館に寄贈したほか、大半は追放中の生活費に売却したと語つていた。

とあることしか判明していなかった。ところが、丸山の日記によると、

(昭和二十一年)
四月二十七日(土)晴
(略)竹秋と共に麻布東町の増田正雄先生を訪問して、神話より研究。結果より時間の問題をきく。十二時、引上ぐ。はじめて先生の家をとひし也(タケノコ二本)。『日韓正宗溯源』、『記紀研究』をかへす。帰りて、『東大古族言語史鑑』をよみ(略)
四月二十九日(月)晴
(略)
午前中、竹内文書*1研究。(略)
十一月三日(日)快
(略)
◯十時半、角筈より牛込北町田中氏に至る。久しぶりなり。西村氏、増田先生、迫水氏、船田氏の外交政治又道楽のおはなしきゝ、いもくひ、五時に至り日くるゝ頃、辞す。青山、うすきと共にかへる。よき一日なりき。

編者の注によると、「迫水」は迫水久常で山本英輔会長の八光会によく参加していたという。また、「船田」は船田中、「青山」は丸山の弟子青山一真、「うすき」はひとのみち教団時代よりの丸山の知人宇宿五郎。11月3日は日本国憲法が公布された日だが、増田らが集まった会がどういう性格のものか不明なものの、とても興味深い記述だ。日記中に増田の名前が現れるのは翌22年6月2日が最後である。
また、『丸山敏雄全集』別巻3の写真集を見て驚いた。「第一冊/ユダヤ研究/20年」と書かれたノートの写真と「ユダヤ研究会で使用したノート」というキャプションである。丸山が昭和20年開催のユダヤ研究会に出席した際の記録である。そんなものが残っているのか。
なお、増田正雄でググる徳富蘇峰記念館が増田の蘇峰宛書簡を所蔵しているようだ。また、聞くところによると、国際政経学会について研究している人もいるらしいので、今後増田の没年も含めて新しい発見があるかもしれない。

*1:日記の昭和19年12月15日の条に「午後、丸ノ内に原氏[原耕三]を訪。竹内、[ママ]文書のことについて語る」と出ている。

下鴨納涼古本まつりで拾った『現代婦人就職案内』(婦女界社、大正14年3月)

下鴨納涼古本まつりで100円。どの店だったかは不明。「日本の古本屋」では4500円。『婦女界』31巻3号の附録で、編輯兼発行兼印刷人は、都河竜。
目次は、

□新たに就職する方々の為めに
□婦人の天分を発揮すべき職業
女医、歯科医、看護婦、助産婦、薬剤師、派出婦
□最も婦人にふさはしい職業
中等教員、小学校教員、幼稚園保姆、事務員、タイピスト、女店員、女子電話局員、女子出札係、女中、女工
□新しく開拓されつゝある職業
速記者、婦人記者、婦人図書館員、製図手、計算手、図案師、婦人外交員、婦人探偵、女車掌、婦人写真師、婦人ガイド、ラジオ送話者
□時間にしばられぬ職業
画家、音楽家、琴の師匠、舞踏三味線、琵琶の師匠、茶と生花、結髪美容師、洋服裁縫師
□強固な意志を要する職業
女優、映画女優、モデル、女給、料理店女中、劇場案内人
□各地の職業紹介所

目次にはないが、「新たに就職する方々の為めに」の執筆者は太田菊子。本書はなかなか面白い内容で、毎年出ていたのなら揃えたいものである。婦人図書館員について引用しておこう。

婦人図書館員
職業の性質 教養ある婦人の落着いた仕事として前途ある職業です。米国あたりは図書館員中三分の二以上が婦人だそうで、我国でも図書館の発達に伴ひ、今後大いに嘱望される筈です。
収入 教習所卒業後の初任給は四五十円ですがその人の教養程度で重く用ひられます。
就職 各地の公私立図書館、各学校の図書館等に勤めるので、学校の紹介で就職します。
資格 高女卒業後専門の教育を受けます。
▲文部省図書館員教習所(上野図書館内)
修業年限 一ヶ年(寄宿舎なし)
入学資格 高等女学校卒業程度
学資 月謝不要 卒業後の責任なし
願届提出 三月末日迄

実際のところ教習所卒業生の何割が女性だったのだろうか。

南多摩農村図書館旧蔵の植村長三郎『書誌学辞典』

天地書房で購入した植村長三郎『書誌学辞典』(教育図書、昭和17年8月)。背表紙に「南多摩農村図書館保管/海老原蔵書/第6門/1501号」のラベル。扉にも同様の記載のラベルがあるが、「第7門」になっている。独自の図書分類だろうか。
浪江虔図書館運動五十年ーー私立図書館に拠ってーー』(日本図書館協会、1981年8月)によると、南多摩農村図書館は、

昭和14年9月21日 私立南多摩農村図書館仮開館
15年1月 東京府知事から開設許可の通知があり、「正式開館」
同年5月13日 浪江が警視庁特高部に検挙され、12月末に起訴される。
16年1月 休館
17年5月 判決(懲役2年6カ月、未決拘留300日通算)があり、服役
同年7月 豊多摩刑務所に移され、満期までつとめる。
19年2月1日 満期釈放で3年9カ月ぶりに家族の元へ戻る。
同年11月 図書館を再開したところ、利用盛大
20年1月から4月半ばまでに、4人の友人宅から、約3千冊の本を運んで図書館に預り、蔵書とともに利用に供する。

4人の友人について、同書89頁には、

「蔵書を預ける」という話は、武蔵高校時代の友人、海老原晃君からで、訪ねてみると部屋中が本、しかも選び抜かれた本であった。正月早々から運び始めたが、そのうち同じ武蔵仲間の伊沢紀(飯沢匡)君、伊沢元美君、寺崎鉄男君の奥さん(鉄男君は応召中)からも同様の申し出があり、嬉しい悲鳴をあげる始末であった。

「海老原蔵書」は、この海老原晃の蔵書であろう。海老原を検索すると、同名の人が『新制ドイツ語中級読本』(郁文堂書店、昭和24年)を刊行しているが、同一人物だろうか。

浪江虔の弟板谷敞もアジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会を見ていた

昭和17年上野で開催されたアジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会については、「まだまだあったスメラ学塾関係論文」などで紹介したところである。私の調査により天羽英二、大蔵公望、斎藤茂吉高松宮中野重治が観覧したことが判明しているが、『浪江虔・八重子往復書簡』(ポット出版、2014年8月)を読んでいたら、昭和17年9月13日付け浪江虔(けん)宛板谷敞(しょう)書簡にも出てきた。

上野でレオナルドダヴィンチの展覧会が開かれてゐます。「モナリザ」や、「最后の晩餐」の模写が、申訳みたいに陳列して有る外、大部分は、彼が残した設計図によって製作、組立てられた機械類で、今の時代としては勿論ビックリする様な物は有りませんが、この「万能の天才」のエネルギーには全く頭が下ります。

板谷は私立南多摩農村図書館を創立した浪江の弟。
浪江『図書館運動五十年ーー私立図書館に拠ってーー』(日本図書館協会、1981年8月)によると、板谷の経歴は、

大正3年9月 生まれる
昭和2年 東京高等学校尋常科に入学。日本基督角筈教会笹塚分教会のメンバーにもなる。
5年12月 同校の社会科学研究会のメンバーとして市電争議でビラ巻きをしたことが端緒で、社研会員が一斉検挙された際の一人となる。
7年9月 諭旨退学
上智大学独逸語専修科に学び、二人の兄の獄中でのおそるべき読書欲を十分満足させる本の差入れを行う。
電機会社に勤め、夜学で日本大学工学部を卒業
15年 兄の検挙(5月)の巻添えになり、半年ほど警察に留め置かれ失職
軍需産業関係の研究所に勤め、再び二人の兄への差入れ本の世話をする。
戦後 シリコニット高熱工業で技術系の仕事に携わり、重役になる。
54年4月27日 相談役として毎日出勤していたが、出勤途中心筋梗塞のため没

既に判明している他の観覧者に比べると有名人ではないが、また一人観覧者を見つけられて嬉しい。

浪江虔・八重子 往復書簡

浪江虔・八重子 往復書簡

宮田昌明『西田天香』(ミネルヴァ書房)に日ユ同祖論

山科にある一燈園西田天香については、『天華香洞録』に村井弦斎のタラコン湯が出てくることを紹介したことがある*1。しかし、西田そのものについては、真っ当すぎて面白くなさそうだと思って、伝記を読んだりはしてこなかった。今回、ミネルヴァ日本評伝選を読んで見たら、おっと驚く記述があった。

(大正三年)八月二十一日から翌二十二日にかけての天香の日記に、京都の太秦と鹿ヶ谷とを対置し、太秦を「聖井保存」「世界大戦乱戦死者献水供養塔」として、鹿ヶ谷を「聖火保存」「世界大戦乱戦死者献火供養塔」として位置づける記述がある。聖井は、イスラエルの井戸に通じると同時に、太秦の由来から聖徳太子にも通じ、俗諦門に当たるとされた。ここで太秦イスラエルに通ずるとされているのは、明治四十一年に発表された佐伯好郎「太秦(禹豆麻佐)を論ず」という論文に由来している。この論文は、その結末部分で、古代日本の渡来人たる秦氏ユダヤ人と比定し、秦氏の居住地太秦村に掘られた「いさら井」(伊佐良井)と称する井戸は「イスラエルの井」に由来すると主調していた。天香が佐伯の論文を直接参照したかどうかは不明であるが、天香としては、世の東西を結ぶこの学説に奇縁を感じたのであろう。

日記は公刊されていないので、原文の記述を確認できないのが残念だが、いさら井に言及しているのなら面白い。この他、西田の多彩な人脈の中に、足利浄円、今岡信一良、内山完造、江口定条、岡田虎二郎、尾崎放哉、河井寛次郎木村毅倉田百三ヘレン・ケラーゴルドン夫人、谷口雅春綱島梁川村上華岳らが出てきて興味深い。ゴルドン夫人は、大正2年10月鹿ヶ谷に一燈園が落成した時の献堂式に参加したというので、西田に佐伯論文を教えたのはゴルドン夫人だったかもしれない。なお、大正10年8月に春秋社の木村が一燈園を訪問した時、一番奥の部屋に「お光」と仏陀、基督、マホメットを合わせて祭ってあったという。神智学が出てきても良さそうだが、本書には特に出てこなかった。
西田は戦後参議院議員に当選、国立国会図書館運営委員会委員長を務めたこともあったという。また、昭和29年11月、ハンガリー宗教哲学者フェリック・ヴァーイーが国会図書館の徳沢龍潭とともに来訪している。徳沢とは何者だす( ・◇・)?と思って、ググったらヒットした。これまた、オモシロ図書館員ぢゃ。

西田天香―この心この身このくらし (ミネルヴァ日本評伝選)

西田天香―この心この身このくらし (ミネルヴァ日本評伝選)