栗田英彦・塚田穂高・吉永進一編『近現代日本の民間精神療法 不可視なエネルギーの諸相』(国書刊行会)は、柄谷行人氏の書評も朝日新聞に出たし、好評のようだ。今回は、同書の「民間精神療法主要人物および著作ガイド」関係の話。一時期は数万人いたと言われる民間精神療法家だが、『破邪顕正 霊術と霊術家』(霊界廓清同志会、昭和3年6月)で紹介されているのはわずか310人程度*1。ほとんどは名前も残っていない療法家ばかりである。本ガイドは、「特に代表的なもの、これまで研究が進んだもの」50人ほどを取りあげているが、名前は知られていても研究が進んでいない療法家も多いようだ。先日文学フリマ東京で発売された『昭和前期蒐書家リスト』が大好評だったようだが、栗田先生あたりに『昭和前期霊術家リスト』を作って、文学フリマで売ってもらいたいものである(冗談です)。
さて、私が小林法運という祈祷師の名前に初めて出会ったのは、蜂須賀年子『大名華族』(三笠書房、昭和32年10月)の「ある祈祷師」だった。民間精神療法家の範疇に入れてよいか疑問もあるが、話題にしてみよう。年子が聖心女学校を卒業した頃、妹の耳病を治すために法運が呼ばれたが、年子の過去や現在について何も的中せず、妹の病気もよくならなかったという。法運が年子の「過現未三界のこと」を当てようとした時の様子は、
(略)私はサカキの枝をかるく両手に持つて、そこに坐つた。
小林は私のうしろで何かブツブツと経文をとなえていたが、
「やあッ」
とてつもない大声を出した。
私はピクリとしたが、何事もない。するとうしろの小林は急にペラペラとしやべり出した。
娘の耳病はよくならなかったが、父親蜂須賀正韶に気に入られ蜂須賀家の相談役になり、その後北海道の蜂須賀農場の支配人に。昭和5年には解任されるが、10年近く支配人を務め、経営は成功したらしい。明治29年生まれの年子が聖心に入学したのは16歳時とあるので、法運に出会ったのは大正初期ということになる。
この法運らしき人物が芥川龍之介の「軍艦金剛航海記」にも出てくる。青空文庫で読める。
(略)外の連中は皆同じ食卓についた八田機関長を相手にして、小林法雲の気合術の事なんぞを話してゐた。
初出は大正6年7月25日から29日までの『時事新報』の文芸欄。「法運」ではなく、「法雲」となっているので、別人の可能性はある。法運の方の経歴は財団法人報恩会編纂委員会編『慈愛に満ちて』(文芸社、平成19年5月)に載っている。これによると、明治9年10月千葉県生、本名幸太郎。24歳の時に東京へ出て、星亨のもとで政治家になる勉強を。星が暗殺された後は、日蓮関係の書を読み、修行を続けた結果、不思議な法力が身についた。明治43年千葉の清澄山で真言宗の修行者と法力合戦をし、勝利する。戦いの後、法運と名乗るようになり、日本中を歩き法力で多くの病人を治した。驚くのは、蜂須賀家の娘の耳病も治したとある。その後の父親の信頼度から言うと、何らかの効果があったと見る方が正しいのかも知れない。芥川が法雲の名前を軍艦金剛乗船時に聞いた大正6年は法運が法力で日本中の病人を治していた時期に当たるようなので、同一人物の可能性は十分ある。法雲にしろ、法運にしろ、『時事新報』の読者に知られているほど著名だったとは思われないが、芥川には宣伝する意図があったのだろうか。