神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『昭和前期の神道と社会』(弘文堂)に照本亶の経歴

國學院大學研究開発推進センター編・阪本是丸責任編集『昭和前期の神道と社会』(弘文堂、平成28年2月)の藤本頼生「照本亶と『皇国』ーー大正期・昭和初期の神社人の言説ーー」に照本の経歴が出ていた。要約すると、

明治22年 横浜市の郷社熊野神社社司照本肇の長男として出生
大正4年 國學院大學大学部国文科卒
大正8年6月~昭和4年12月 『皇国』編集主任
昭和6~7年 『皇典講究所五十年史』編纂作業を担当
昭和13年 逝去 

藤本氏は『皇国』誌における照本亶(金川金川生)名の論説・主張を一覧にしていて、古本関係では、「古本随筆」(昭和2年3月)のほか、「古本漫談」(3年4月)、同(同年10月)を挙げている。照本は他にも「古本随筆」を書いているはずだが、無署名なのだろう。
なお、本書は他にも武田幸也「今泉定助の思想と皇道発揚運動」、上西亘「藤澤親雄の国体論ーー戦前期を中心にーー」、川島啓介「戦時期の国語世界化と国学」など注目すべき論文が多い。

昭和前期の神道と社会

昭和前期の神道と社会

『皇国』(皇国発行所)に「古本随筆」を書いた照本金川こと照本亶

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2年前の天神さんの古本まつりでオヨヨ書林から『皇国』(皇国発行所)の338号(昭和2年2月)及び339号(同年3月)を入手。1冊200円。安かろう、悪かろうで、前者は55頁から64頁まで、後者は1頁から59頁までが落丁。若い人には、「安くても奥付が欠けていたり、落丁のある本は買ってはいけない」と言いたいが、わしみたいに残された古本人生があまり無さそうな爺さんになると、状態のよいものに再会できる機会は無いので購入。目次で見つけた「古本随筆」の頁が存在するのも買うことにした決め手である。『皇国』は洛魚氏辺りは当然承知の雑誌だろうが、『神道史大辞典』(吉川弘文館、平成16年7月)によれば、全国神職会の機関誌で、明治32年8月創刊の『全国神職会々報』(会通社、のち全国神職会々報発行所)を大正10年1月266号より『皇国』(皇国発行所)と改称。神職間の通信にとどまらず与[ママ]論の喚起と団結を目指した。昭和5年1月より『皇国時報』と再改称し、14年末頃まで継続したという。折口信夫の「現行諸神道の史的価値」279号(大正11年2月)が載った雑誌である。
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写真は339号の目次だが、引用は338号の「古本随筆」からにしておこう。

 読書熱の盛んなこと昭和に入つて益々景気がよい。一円の全集が日本文学、世界文学、世界大思想全集へと真似て出てくる。『読本』が下火になつたせいでもなからう。又古事類苑が重版され本居宣長全集につゞいて、賀茂真淵の全集が出る。栗田博士の神祇志料も重版されるといつたやうに古典全盛、何とすばらしいではないか。改造社の日本文学全集は、二十万円儲けたさうであるから景気がよいのであらう。
 書物専門の雑誌すら十七もあるといふのだから、古本随筆が試みたことも、穴勝、非科学的のものでない。各新聞のブツクレブユー欄も相当評判がよい。本誌も久しく古本随筆を休んだので茲に復活させる。(略)
芳賀矢一博士の薨去は、国文学界の、一大損失である。(略)富山房などが今日あるは確かに博士のお蔭だ。それにつけても古本随筆から見ると、文会堂あたりも博士の恩恵を受けたものであらうが没落したので惜しいことだ。例へば国文口訳叢書の如きは、其の一つであらう。此の既刊の内先生の『つれ”/\草』と『大鏡』は折口信夫万葉集上、中、下三冊と共に評判がよく、値も高い。折口君の万葉と其の辞典はすばらしい。前者は三冊で八、九円、後者も五、六円する[。]絶版なること勿論である。それから同じ文会堂のもので『月雪花』『日本人』があるが富山房から刊行した『国民性十論』と共に先生の随筆ものとして最も好評のものである[。]前二者は絶版である。殊に『日本人』の方はあまり見受けない。
(略)

この執筆者は、338号では無署名だが、339号には照本金川とあり、本誌の編輯人、発行兼印刷人である照本亶と同一人物と思われる。照本亶には『神社概説』(東方書院、昭和9年8月)などの著作がある。経歴は調べてないが、神道書に限らず古本全般に詳しく面白そうな人物である。本誌はゆまに書房から復刻されているので、「古本随筆」だけでも通覧してみたいものである。
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奥付の写真もあげておこう。次頁に國學院大學院友会の広告が載ってるね。大学図書館が完成して、「院友著書展覧会」の開催が予定されていたようだ。三島敦雄『天孫人種六千年史の研究』(スメル学会)の広告も載っているので写真をあげておく。
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昭和16年6月折口信夫が見送った樋口清之國學院大學講師

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神戸の古書店つのぶえはキリスト教書の専門店だが、専門外の本が格安で出るので時々のぞいている。『会報』昭和16年第5号(國學院大學院友会、昭和16年6月)、16頁・非売品もそんな1冊である。國學院大學院友会は國學院大學の卒業生の親睦団体で現在も一般財団法人として存在している。編輯兼発行人は財団法人國學院大學院友会代表者宮崎直治。
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目次も写真であげておくが、樋口清之の応召壮行会が載っているので購入、300円。引用しておこう。

前理事樋口清之
 応召壮行会
 本会前理事母校講師樋口清之君は、今回召集令に接し勇躍入隊せられることになり、去る六月四日午後四時氷川会主催の壮行会が母校講堂附属食堂で開かれた。学長はじめ会するもの約百名、学長の樋口君を送る挨拶の辞に続いて樋口君起ち、烈々たる気魄を全身に漲らせ、応召の覚悟を吐露し、次いで一同万歳三唱。更に鳥野院友会長、氷川会幹事田中義能博士の挨拶あり、折口信夫博士の和歌、加藤玄智博士の漢詩を、高崎正風氏の辞と共に和歌を披露せられ、中野淳公氏も和歌の朗詠、葦津庶務課長軍歌、八木要氏同じく軍歌、ブラスバンドの君ヶ代、校歌演奏を以て賑かな壮行会を閉ぢた。
(略)

折口信夫教授が和歌で樋口清之講師を見送ったようだ。折口信夫全集(中央公論社)の年譜ではこの年折口は、池田弥三郎や藤井春洋の応召を見送っているが、樋口についての記載はない。本誌は國學院大學図書館も含めて、どこの図書館にもないようだ。あるとすれば、國學院大學院友会自身だろうか。バックナンバーに当たれれば、もっと折口の動向が分かるかもしれない。

知恩寺の古本まつりで折口信夫門下の山川弘至書簡集を

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積ん読だった『山川弘至書簡集』(桃の会、平成3年7月)を読了。twitterの記録によると、4年前に知恩寺の古本まつりで拾ったようだ。三密堂書店出品、200円。山川弘至は折口信夫の門下生で、詳しくはWikipediaなどを見られたい。そこには書かれていないが、昭和19年9月7日付け妻の京子宛書簡中の「略歴」に萩原朔太郎が出てきた。

(略)中河先生(中河与一 引用者注)の紹介により、日本浪漫派の長老にして我国詩壇の高峰たる萩原朔太郎先生の門に入り、生来の志望たる詩を学ぶに至り、進境漸くいちじるしきものあり。このころより藤田徳太郎、浅野晃、中谷孝雄、田中克己丸山薫、神保光太郎、宮崎丈二、衣巻省三樋口清之、横井金男、今泉忠義氏ら文壇及思想界学界の人々を識り、我は皆に感動又折口信夫先生を通じて我国民俗学界の権威柳田国男先生の影響を大いに蒙るに至れり。

山川弘至、朔太郎通信さんは知ってる人かしら。妻の京子もWikipediaを見られたいが、それに加えれば、東京開成館常務取締役田中嘉三郎の娘であった。山川と京子は昭和18日5月31日中河邸で見合いをし、秋に結婚することに決まったが、召集令状が来たため、6月28日中河夫妻の媒酌で、折口、芳賀檀、保田与重郎が出席で挙式。7月3日には出立という、極短期間の新婚生活であった。本書には京子からの書簡が最も多く収録されていて、山川は妻が書き送る詩を楽しみにしていたようだ。19年6月7日付け葉書から。

おはがきありがたう 三好達治氏の詩 はがきをとり出して いつもいつも愛誦してゐます 私は友人が食後などたばこをのんでゐるときなど いつもこの詩を出してよんでゐます やはりうつくしい文学にうゑてゐるのだなあとおもひます(略)それにつけてもおたよりのたびに たれかの作がかいてあるのがのぞましい といふよりも必要品です(略)

残念ながら京子が送った三好の詩が何であったかは不明。
山川は昭和19年9月台北飛行師団司令部附暗号将校となり、ここで台湾のあの人と出会っている。同年10月26日付け父新輔宛葉書。

先日こちらの文壇の最高文学者ともいふべき西川満氏をたづねました 拙著三冊西川氏あてにおくつて下さい

20年1月21日付け京子宛書簡には

詩集の方も牧田氏にさうだんして出して下さい
この方は中河・芳賀両先生に序文をもらふこと 詩のすくないのはやむをえない 西川満氏には跋文をかいてもらひます
本の題名は日本創世叙事詩

京子も國學院で折口に教わっていて、20年9月(正しくは7月か)27日付け書簡には折口が出てくる。

折口信夫先生によろしく(略)
折口信夫著「死者の書」(小説です) 十九年春ころ発行 買へたら手に入れておいてほしい 青磁社刊行です

おそらく山川は恩師の『死者の書』(青磁社、昭和18年9月)を見る機会は無かっただろう。「山川弘至軍事略歴」には次のようにある。

昭和二十年八月十一日 午前十一時頃耐爆壕内で勤務中猛烈なる爆撃により 部下十数名と共に戦死を遂ぐ 数へ年三十才

「本のすき間」から石塚右玄と合著を出した塩田宗沢を発見

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日本の古本屋メールマガジン南陀楼さんが「『本のすき間』を探る人」と名付けてくれた。これは、物理的に本と本の間に挟まった小冊子等を掘り出すという意味だけでなく、雑書や日記の記述の中から研究者も気付いていない情報を見つけるという意味も含めているのだろう。さて、塩田良平『妻の記』(現代文藝社、昭和32年12月3版)の「少年行」から塩田と宮武外骨の知られざる関係を見つけたことは「水田紀久先生旧蔵の塩田良平『妻の記』で知った塩田と宮武外骨の関係に驚いた」で紹介した。今回は、塩田の父塩田宇沢の発見である。

その頃父は再び元気をとり直して、もう還暦はすぎてゐたのだがもう一度働き直すといつて再び大井町から引上げて、一時麹町に移り、更に明治初年以来住んで居た牛込に戻つて、谷町に居を構へて医師を開業した。父は浅田宗伯門下であつた関係から漢法を得意としたのであるが、宗伯死後漢法のみで処すのは難しい事を悟り済生学舎に学び洋医となつて横浜で開業してゐたことがある。しかし牛込に再び戻つてきた頃は、食療法の石塚左玄の次代右玄と親しんで専ら昔日の漢法療法に食療養法を加味した独特の診療を開始した。
(略)
かうして父は六十四五歳から七十五六歳まで見違へるやうに丈夫になつて働いた。この間に石塚右玄と合著の「食物療養[ママ]法」を著し、自身でも食養法上下を著した。別に漢詩文集「澎[ママ]水詩存」一巻がある。父は茨城県郷士の次男坊で秋葉大五郎といつた。幕末に笈を負うて上京し浅田宗伯門下に加はり、認められて宗沢を命名されその姪を室として塩田姓を名乗つたが、水戸の血を受けて頑固であつた。(略)

平成23年福井県ふるさと文学館に行ったが、郷土の偉人コーナーのような所に石塚左玄があって驚いたことがある。右玄は左玄の長男で、明治18年3月30日生、大正15年4月8日没である。右玄には『石塚式食物治療法』上巻(石塚食療所編輯部、大正10年4月)の著作があって、「はしがき」に「下巻は目下着々是れが脱稿に努めつゝあります」とあるものの、下巻の刊行は塩田宗沢名義で食養会事業部から昭和6年1月に刊行されている*1。また、宗沢の『彭水詩存』(塩田良平、昭和7年)は「日本の古本屋」に出品されていて、あきつ書店ほか1軒が2万円以上付けている。
色々調べて、ようやく『日本医療録 附録、医学博士録、法規』(医事時論社、大正15年12月2版)で宗沢の経歴が確認できた。

塩田宗沢 市ヶ谷谷町五一 内科 石塚食療所 安政三年一月十四日生 明治十七年(登)五四三号 同十七年ヨリ四二年迄横浜市ニ開業卅年ペスト病流行ニ際シ其予防撲滅ニ盡力セシ功ニ依リ県知事ヨリ木杯ヲ下賜セラル大正八年末石塚右玄氏ノ許ニ故石塚左玄翁ノ化学的食物療法研究中

かつて黒岩比佐子さんは、『『食道楽』の人 村井弦斎』(岩波書店、平成16年6月)で弦斎より前に左玄が「食養医学」や「食育」を提唱していたことに言及している。生きておられたら、左玄の長男右玄と塩田良平の父塩田宗沢の関係に驚いてくれただろうか。

『食道楽』の人 村井弦斎

『食道楽』の人 村井弦斎

*1:追記:「凡例」に「石塚右玄氏曩に食物治療法上巻を著はせしも、不幸病を以て物故せらる。余が本書を編纂せるは一に其の意志を継ぎ、聊か故人の霊を慰めんが為めであります」とある。桜沢如一「塩田宗沢先生小伝」あり。

『杉浦明平暗夜日記』で森谷均の昭森社が悪口を言われていた

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昭和44年3月29日昭森社の創業者森谷均は亡くなった。4月3日に青山斎場で開かれた友人葬で神原泰が述べた弔辞が『本の手帖』別冊,昭和45年5月に掲載されている。

(略)森谷君は、絵を、彫刻を、詩を、文学を愛したが、更に人間を愛した。芸術を愛する以上に芸術家を愛し、芸術家を擁護し、援助した。(略)
森谷君よ、君を愛し、君を追慕する人は沢山あっても、君を憎み、君を恨む人は一人もいないであろう。天国がもし有りとするならば、それは当然君のものだ。
(略)

弔辞だから故人を悪く人はいないだろうが、同別冊を読んでいると、いかに森谷が詩人、作家、画家、学者、評論家、編集者などに愛されていたかがわかる。しかし、今回若杉美智子・鳥羽耕史編『杉浦明平暗夜日記1941-45 戦時下の東京と渥美半島の日常』(一葉社、平成27年7月)で戦時下の昭森社への批判を見つけた。

(昭和十六年)
十二月五日(金) 曇
(略)
寺島*1をたずねて、ダ・ヴィンチの出版について紙の特別配給について話した。係の花島*2というのに会ったが、昭森社はでたらめで全然信用がないから無理だろうと言った。私の原稿も印刷所から昭森社を経てそこへ来ていた。(略)
(昭和十七年)
三月十二日(木) 晴
(略)土方氏が出て来ていないので、昭森社の話はどうしようとしばらくためらったが、四時少しまえ胸を轟かせながら電話をして森谷に話した。きょうは昨日と反対に出来るだけ弱く、これ以上交渉をつづけてはこちらが神経衰弱になるから、ここで話を打切ろうと言った。向うも多少困ったらしいが、どなりつけもしなかった。(略)私の初めての出版であるから、本屋として不満だったけれど、きれいな本を出してくれるというので辛抱することにしていたら、何かしらこちらの立場を無視するどころか駆引ばかりして、とうとう私をじらじらさせてしまった。(略)
三月二十五日(水) 晴
(略)帝大病院附属図書室の三輪*3をたずねて(略)丁度そこに来ていた不二書房と北川桃雄氏*4昭森社のことをこぼすと、二人とも昭森社の評判のよろしくないことを言っていた。
(略)
四月十五日(水) 晴
(略)
昨日のことだったか、新聞にレオナルド・ダ・ヴィンチ*5の記事がのっていた。(略)それにつけても私の本が出ていたら、相当な売行を示しただろうと、あんな昭森社のようなインチキ本屋に渡したことが腹立たしかった。(略)

当時興亜院の嘱託で昭和17年9月に日本出版文化協会に移る杉浦が昭森社から出そうとしていたダ・ヴィンチの本は、同社から『近代日本洋画史』(昭和16年5月)を出し、杉浦とは興亜院で共に嘱託だった土方定一*6が仲介したものだった。杉浦が昭森社からの出版を取り止めた具体的な理由は不明だが、昭和10年創業の昭森社はまだまだ評判は良くなかったことが分かる。ただし、別冊の「昭森社刊行書目総覧」によれば、昭和17年には橋本平八『純粋彫刻論』など28冊刊行している。今後森谷の伝記を書こうとする人は、こうした資料も使って多面的に森谷を評価してほしい。
杉浦は17年6月3日昭森社から原稿を取り戻し、18年10月野々上慶一*7が勤めていた十一組出版部から『科学について』として刊行。この辺りの経緯は、岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の解説によると、

わたしがレオナルドの翻訳にとりかかったのは、イタリア語を勉強して何年もたたない一九四〇年ごろであった。そして戦争中、茂串茂君*8や秋元寿恵夫さん*9にたすけられて、この文庫の下巻と大部分において共通する訳著『レオナルド・科学について』を出版した。上巻の部分も大半は終戦までに訳し終っていた。

杉浦の日記は大正15年6月から平成5年3月まで杉浦家に保存されていて、本書では昭和16年から20年までの分が収録された。本書だけでも、田所太郎(日本読書新聞)、鈴木庫三花森安治品川力(ペリカン書房)、大橋鎮子(日本出版文化協会)、柴田錬三郎(同協会)、坂本越郎(同協会)、親しかった立原道造(昭和14年没)、堀辰雄福永武彦、小島輝正、生田勉、小山正孝などが出てくるので、未刊の日記にどれだけの情報が埋もれていることか。私が生きているうちに、第一高等学校や東京帝国大学文学部在学中の日記だけでも公開されてほしいものである。
参考:「昭森社の森谷均人生最後の年賀状
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杉浦明平  暗夜日記1941-45: 戦時下の東京と渥美半島の日常

杉浦明平 暗夜日記1941-45: 戦時下の東京と渥美半島の日常

*1:寺島友之。大正2年生。昭和14年東京帝国大学文学部国文科卒。日本出版文化協会に勤務後、中等学校教科書株式会社に転じる。杉浦の妻美知子の長兄。以下人名への注は編者のものを要約

*2:花島克巳。明治38年生。昭和4年東京帝国大学文学部仏文科卒。日本出版文化協会の文化局海外課主事補として図書の用紙割当担当。当時同課には武田泰淳も書記としていた。戦後も同協会渉外翻訳権室に勤務

*3:三輪福松。美術史家。明治44年生。昭和13年東京帝国大学文学部美学美術史科を卒業し、医学部附属図書館に勤務。戦後東京学芸大学教授

*4:美術史家。明治32年生。東京帝国大学文学部美学美術史科在学中の昭和15年鈴木大拙著『禅と日本文化』を邦訳して岩波新書として出版。戦後共立女子大学教授

*5:アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展」参照

*6:評論家。明治37年生。興亜院嘱託を経て北京燕京大学内華北総合研究所研究員。戦後神奈川県立近代美術館

*7:明治42年生。昭和6年早稲田大学専門部政治経済退学。本郷に文圃堂書店を開店。小林秀雄の懇請で『文学界』発行元となる。11年閉店し十一組出版部に勤務

*8:大正3年生。東京帝国大学在学中からイタリア語を習得して独学でダ・ヴィンチ研究に取り組む。卒業後日伊協会に就職。敗戦後間もなく病没

*9:医師。明治41年生。昭和13年東京帝国大学医学部卒業。結婚に際して日吉に立原道造の設計で家を立てた。19年5月陸軍臨時嘱託としてハルピンの七三一部隊に派遣

関西における古書店のフリペ事情

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古書目録については、鈴木宏宗「古書販売目録の効用」『日本古書目録大年表』2巻(金沢文圃閣平成27年1月)にその特性と意義が適格にまとめられている。それによれば、古書目録には、読み物としての目録もあり、吉野作造らの序文が載った『一誠堂古書籍目録』(大正14年)や柳田国男序の『古書籍在庫目録 日本志篇』(昭和3年)が挙げられている。更には、大正期から昭和初期には古書目録発行の勢いが書誌的雑誌に進み、この例として杉田大学堂『書物礼讃』、玉樹香文房『典籍之研究』や荒木書店『古本屋』などが挙げられている。
かつて反町茂雄は一流の古書店の条件として古書目録の発行があると喝破した。一流を目指す古書店は勿論、いや一流の古書店なんか目指さないよという古書店も皆古書目録を発行する時代が確かにあった。しかし、ネット全盛時代となり、かなり減ってしまった感がある。そのような状況の中、特に若い店主や増加傾向にある女性店主の古書店による情報発信や常連客との交流の場として、古書目録としての要素がまったく又はほとんどないフリペの発行が増えてきたようだ。写真にあげたのは、関西におけるそんなフリペである。

京都
 萩書房『萩書房闊歩』・・・73号しか見たことがない。通常は在庫のカタログを掲載しているが、この号は市会で入手したマッチ箱コレクション(非売品)の紹介。
 カライモブックス『唐芋通信』・・・石牟礼道子や娘さん(みっちん)の話が多い印象
大阪
 本は人生のおやつです‼『本おや通信』・・・店主の知人や常連客を紹介。私も登場したことがある。「『本おや通信』27号(「本は人生のおやつです‼」発行)は「神保町のオタさんの巻」」参照
 古書からたち『からたち通信』・・・本来は常連客による寄稿が中心。穴埋め用の店主による日記が時にメインになったりする。字が小さいのが老眼に厳しいが、読むのが楽しい日記である。店売りを一時休業し、発行が10号で止まっているが、11号の準備中とのこと。編集担当の奥さんによる編集後記が肝という意見も多いようだ。
神戸
 トンカ書店『トンカ新聞』・・・特に同業者を取材した各店主の写真付きの「古本屋探訪」が貴重。移転して店名が花森書林に変わったので、このフリペはどうなっただろうか。

関西の古書店の極一部しか行ったことがなく、もっとフリペは存在すると思われるので、御存知の方は御教示いただきたい。
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